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第3章第3節 農学校時代、雑誌編集に関心


農学校に入り寄宿舎生活

大井信勝(のちの冷光)は明治33年、富山県農学校(明治34年から富山県立農学校)に入学した。農学校は自宅から40キロ離れた東砺波郡福野町にあり、富山市から見ると田舎である。8月ごろまでは、農学校から3キロほどはなれた野尻村本江にある伯父の実家から通学し、9月からは農学校に出来た仮の寄宿舎に移った。[1]

信勝は、15歳から23歳にかけて日記を残している。それらは順に『波葉篇』『借家墨染日記』『新兵日記』『冷光日記』と4つに分けられている。ある時は毎日のように記され、ある時は備忘録のような短文である。いずれも数多くの人名と固有名詞が登場し、これらをすべて読み解くのは相当根気のいる作業である。

大井冷光の4つの日記

『波葉篇』日記 明治34年1月31日~明治38年3月31日(15~19歳) 農学校1年生から3年で卒業し、その後上京、早稲田大予科入学手続き、直後に帰省を余儀なくされるまで。明治38年9月に冷光が日記を抜粋して清書した。本人の注釈付き。編さん後に井上江花に見せ、江花が序文(叙)を記している。『波葉篇』には日記のほかに雑纂と付録がある。『借家墨染日記』 明治38年6月19日~明治38年11月27日(19~20歳) 富山市に借家で暮らし米穀検査所に勤めたころから1年志願兵として兵営に入るまで。『高岡新報』の連載「冷光余影」所収。井上江花『老梅居日記』にも関連の記述がある。『新兵日記』 明治38年11月28日~明治39年12月17日(20歳) 金沢の兵営に向かい、入隊した直後まで。『高岡新報』の連載「冷光余影」所収。兵営は明治39年11月までで、この時期を補うものとして井上江花が受け取った書簡が54通存在する。これも「冷光余影」所収。『冷光日記』 明治40年1月23日~明治40年8月13日(21歳) 富山に戻り高岡新報記者となった約7か月間。「冷光余影」所収。明治40年4月ごろまでは丁寧だが、その後はわずかなメモ程度の内容。「冷光余影」は『高岡新報』で主筆・井上江花が大正11年1月1日から6月18日まで71回連載。その中に日記や作品が多数含まれる。

軽農学組で在野農民党

農学校時代は『波葉篇なみはへん』日記に詳しいが、その前に同級生による回想を紹介しておこう。

農学校の信勝はどんな生徒であったのか。同級生の福井重次(中川滋治)は、10年余り後の大正3年に興味深い文を残している。明治36年卒は29人(※名簿は31名)いて、4つのタイプに分かれるという。「驚くほど頭よい温厚篤実組(蓑笠草鞋篤学組)」「寄宿舎固骨ベース組」「寄宿舎通学軽農学組」「田園篤農家組」である。信勝は寄宿舎通学軽農学組に名を連ねている。また、「官僚党」と「在野農民党」に分けるなら、信勝は後者だとしている。

"軽農学"という言い回しで分かるように、信勝は農学一筋に打ち込むようなタイプの学生でなかった[2]。日記の端々から、さまざまなことに好奇心をもつ性格がうかがえる。3年生の明治35年5月には「実に多方面に余り手を出されん、絵画、音楽、軟文學、とを殊に注意せなくちやならん」と自分に言い聞かせるように記している。後述するが、すでにこのころお伽ばかりでなく唱歌に関心をもち、ヴァイオリンやオルガンも演奏し、10数年後に作曲家室崎琴月と知り合って「少女」音楽大会を開いたのもなるほどと思わせる。

学業の面をみていくと、「各個実習」で受け持ちの十五歩の田を耕したり、茶を製造したり害虫駆除の実習をしたり。数学(代数)の試験が零点で嘆いたり、卒業試験で31人中9番に入り納得してみたり。3年生で寄宿舎の室長となり、工芸学校と野球(ベースボールとも表記)の試合をすることを決めている。教師から借りてテニスをしたり、サッカー(フートボールと表記)をやったりもしている。また、「剣術をやって心臓のげき動に困難した」という健康不安を感じさせる記述がある。(明治35年7月16日)

14歳で雑誌に詩を投稿

さて、大井信勝はいつごろから文学に目覚め、みずから物を書くようになったのか。少しさかのぼって明治32年から明治33年にかけて、13歳ないし14歳の頃、つまり富山中学1年から農学校の1年生のとき、富山日報で連載されていた井上江花の小説を愛読していたという。また、この頃、谷生(こくせい)、一心、月影、影舟、桂葉という雅号を使っていたという。[3]そして農学校1年のとき『幼年世界』に「なみは」の署名で投稿した「お庭の蛙」という詩(唱歌)が、『幼年世界』1巻10号(明治33年9月)に掲載されている。信勝はまだ14歳である。[4]これは『波葉篇』雑纂に収められている。

『波葉篇』は、信勝が明治38年9月に自ら編纂した筆写本である。雑纂・日記・付録の三部からなる。雑纂は学生時代の小説・詩・美文・俳句・和歌など計42作品を集めたもので、中には新聞に寄稿した作品も含まれる。「お庭の蛙」は、42作品の最初に綴られている。

農学校2年の明治34年以降の作品も、『波葉篇』雑纂のなかにほぼ執筆順に収められている。そのうちのいくつかは、もともと『面影』『蜜蜂』という作品集にまとめられたものである。またこのころ、富山中学のOBらが中心に結成した文学同人・北声会の同人誌『北声』(明治34年8月創刊)にも、9月と10月に俳句や和歌を「大井波葉」の名で投稿している。明治34年と35年の作品が多く、明治36年8月には『北光新報』に小説『紫陽花』が掲載されている。信勝の小説としてはこれ以前に明治34年2月『雨の小蝶』、明治35年1月『田舎路』、明治35年10月『鄙柿』『おひさ』、明治35年11月『お嬢様のお手紙』などがあるが、活字になったのは『紫陽花』が初めてのようだ。その内容は、自身の境遇を映したような部分もあり注目されるが、詳しくは後述する。

『波葉篇』日記を読み解いていくと信勝の読書遍歴が分かる。小栗風葉『花あやめ』、徳冨蘆花『不如帰』『思出の記』、阪井久良伎『へなづち集』、尾崎紅葉『金色夜叉』、平田禿木『薄命記』、ラム『セキスピヤ物語』、大町桂月『學生時代』、幸田露伴『恋のなやみ』。金港堂書籍発行の"三銭お伽話"もある。

また雑誌では、『新声』(明治29年創刊・新声社)、『少年世界』(明治28年創刊・博文館)、『中学世界』(明治31年創刊・博文館)、『青年界』(明治35年創刊・金港堂書籍)、『中等教育』(明治30年創刊・東京教育社?)、『成功』(明治35年創刊・成功雑誌社)を読んでいた。明治35年5月30日の日記に「支那鞄を開くに其大部分は雑誌(然も中學世界)で充たさる」とあるように、かばんの中は雑誌でいっぱいだった。

校友会雑誌の編集担当

農学校時代にすでに雑誌の編集に関心を抱いていたことをうかがわせる記述が数多く残されている。農学校には当時、在学生と卒業生でつくる校友会という組織があった。[5]信勝は校友会の雑誌部幹事をつとめ、『校友会雑誌』を編集していた。明治35年7月11日には「四十五点の票で又校友會の雑誌部幹事に薦選せられた」と記し、同年10月11日、「予てあつらいた《中等教育》五ケ月分来る故清水君の宅で開く而し随分編輯の上手な雑誌だ」、同年12月5日には「雑誌部の幹事に又候四十点と云ふ最高点で当選した」と書き残している。

信勝の編集した『校友会雑誌』は現存するものがまだ確認されていない。農学校の後身にあたる富山県立福野高校には現在、『校友会雑誌』が十数冊保存されている。最も古いのが明治37年発行の第3号である。毎年1回の発行であるとみられることから、信勝が編集したのは明治35年の第1号と明治36年の第2号であろうか。富山県内ではこの2つの号の存在は確認されていない。校友会雑誌は近隣校や友好校との間で交換されていた形跡があるので、他校に保存されている可能性はある。

同窓会の会報の編集も手がけていた。当時は、同窓会は出身地別で、富農クラブ・西砺農友会・新川農窓会・三郡農交会という組織があった。明治35年9月3日には「農窓會報に記載すべき雑録の如きものを書けと云ふので夜に頭のいたんだ」、5日にも「夜には又雑報を書くのに苦しめらるゝ」。同年10月20日「農窓會報の訂正にいそがはし」、翌21日「今日も農窓會報を分布するやら字を入るゝやら」と書いている。明治36年1月19日には「新川農窓會報二號發行に付夜る中の談議而して我ニ編輯主任を托せらる」、同年1月26日「農窓會報編輯事務多端」と記している。

こうしてみると、信勝は単なる読書好きでなくまた単に書くのが好きなのでなく、雑誌の編集に早くから関心を抱いていた。雑誌編集者としての大井冷光の原点はここにあるのである。

早くから音楽にも関心

大井信勝(のちの冷光)は早くから歌や音楽に興味をもっていた。数え年7歳か8歳ころ母に教えられて唱歌をよく歌っていたらしいことは前述したが、農学校に入って音楽への興味を示している。最初の創作は明治33年9月、『幼年世界』に投稿した「お庭の蛙」という詩であり、それは曲をつけることを想定した唱歌である。

明治35年6月、3年生の時には風琴(オルガン)を弾き、深夜まで楽譜をつくろうとしてうまくいかないと日記に記している。同年7月13日に初めて「歌曲」をつくったという。同月28日、唱歌「夏休み」を作詞し、曲譜にあわせてみようとしているのだが、これが初の「歌曲」なのであろう。「なつやすみ」は『波葉篇』雑纂に収録されている。

帰省中の8月11日、近所の家に行って、手風琴(アコーディオン)を見た。そしてその1週間の日記に次のように綴られている。

「曙のきよき気の通ふ二階にオルガンを奏でて朝の歌でも歌ふ様な家庭が僕の理想する所である」

10月27日、近くの小学校の運動会で、女生徒が《松紅葉》という唱歌を遊戯している場面を日記に記している。その約1か月後、寄宿舎で《花紅葉》という唱歌を皆に教えたという。《松紅葉》《花紅葉》も現在のところ誰が作詞作曲したものか分かっていない。

「霜高き朝の田舎道、遠方の野寺の銀杏の色、彼方の雑木林の櫨紅葉の色の日に照りかへさるゝ様、さてはいよよ澄みてつめたき里川の水」

(※《花紅葉》の歌詞か)

同年12月7日には、「活動の声」という歌を農学校の校歌のつもりでつくったが、周囲には評判がよくなかった。しかし信勝はひとり気に入り、3日後この歌を『富山日報』に投稿した。さらにその3日後、親友の清水の家を訪ねて意見を聞くと、清水は文句が幼稚だと言った。3年後に日記を清書する際につけた注釈には「大胆きはまるもので、思い出すと今でも冷汗が出る」とある。この歌と関連して、『校友会報』第2号(※校友会雑誌と同じか)に載せるため明治36年1月17日夜から23日にかけて「農事改良の声」という論文を書いた。これは『波葉篇』雑纂に収録されている。

明治36年2月1日、寄宿舎の新年茶話会が開かれ、隠し芸でだれかが信勝のつくった曲を披露した。歌ったのか演奏したのかは不明である。信勝はうれしかった。

その1週間後、辻円知という先生の家を訪ね、遊びでヴァイオリンで弾いた。2月28日には親友清水の宿で《愛吟集》という英語唱歌を歌って遊び、「欧米の歌はさすが大国的精神が籠って居るといふべしだ、freeとかloveとかばかりだけれど面白し」と記している。翌日、辻からワシントンが革命の旗を挙げて米国を独立させた時のマーチを教わったという。明治36年5月には、辻が信勝を訪ねてきて、ヴァイオリンを弾いた。辻は前年9月に英語嘱託として赴任して明治36年末まで在籍したが、若い教員だったのか、信勝とは友人と同じように社会や人生について語り合っている。

[1]『波葉年表』(井上江花「酉留奈記」204『高岡新報』大正10年8月5日)による。

[2]信勝は一時は農業を志したようである。明治35年8月23日、農学校3年生の夏休みに、官立では日本最初の高等農林学校として設立されたばかりの盛岡高等農林学校へ入りたくなり、地図をとり出して見たという。同年12月21日には、1年先輩の林一見と互いに農科大学に進学しようと話したらしく、その翌日に「昨日は僕の煩悶をひらいた尤も記憶すべき日である(どうも記憶して居ない、か或は将来農科大学の実科へ入らうと林君と云へ合したことではあるまいか)」と記している。括弧内は信勝が3年後につけた注釈である。

[3]「戯書三人気質」『探検』14号(明治43年7月10日)による。井上江花は明治32年11月12月にかけて『富山日報』に短編小説「失跡の理由」など相次いで書いたが、このときの筆名は「よろずや主人」。江花の名を使ったのは明治33年からで、1月1日に高岡新報に入社したが、『富山日報』で「古城物語」などを書いている。これを信勝が読んだのであろうか。雅号ついては、「身上くらべ」(井上江花「酉留奈記」208『高岡新報』大正10年)に記されているが、15歳には、波葉・一風・白沙となりまた波葉に戻ったという。日記には明治34年に8月21日に、「本日より改めて掬星と号す、元大井波葉」とある。

[4]『幼年世界』の主幹は『少年世界』と同様、巌谷小波であり、その小波のお伽噺の余白に掲載されたことを、『波葉篇』雑纂のなかに記している。

[5]『富山県教育史』によると、校友会は在学生と卒業生による学術上の研究会。校長が会長、毎月1回小集会、春と秋に総集会が開かれ、演説と討論などが行われ、会報が出されていたという。生徒が自主的に運営し、職員は賛助員であったという。(2012/10/27 23:56)(2024/4/2修正)


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