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第6章第4節 山岡島子と筝曲合奏

室崎琴月(本名清太郎)は牛込区の下宿から上野の東京音楽学校に通った。明治43年に上京してすぐ下宿したのは神田区駿河台だったが、その後、本郷区や麹町区などのべ10回ほど引っ越しをしたという。練習で鳴らす楽器の音がやかましく問題になったらしい。

大正2年、予科生となった琴月は子どもに音楽を教えはじめた。小学1年生の佐藤静千代という少女だった。静千代は4年後の東京家庭音楽会演奏会、そして5年後の帝劇少女音楽大会に出演することになる。双方の演奏会でベートーベンのピアノソナタも披露しているので、琴月はピアノを教えていたものとみられる。帝劇少女音楽大会では琴月のピアノ伴奏で静千代が《友よいづこ》を独唱したことは第1章で既述した。

6年生の静千代は本郷区駒込小学校に在籍していた。静千代関係で分かった事実はここまでで、琴月がいったいどこでどのように音楽を教授していたのかは分からない。自宅まで出向いての教授なのか、どこかの塾や教授所で教えたのか。いずれにしても、予科に入った年に、琴月は子どもを相手に音楽を教えはじめたのである。

子爵家へ出稽古

音楽の教授といえば、琴月はのちにこんな回想の句を詠んでいる。

出稽古に最初にゆきしは久世子爵家
表本所の久世家今いかに

久世子爵家とは、本所区表町21番地にあった久世広英(くぜ・ひろひで、?-1927)の家である。父の下総関宿藩9代藩主久世廣業(くぜ・ひろなり、1858-1911)が明治44年11月死去し、広英は襲爵したばかりであった。久世家に音楽を習う年齡の誰かがいたのであろうか。琴月が、久世家に出入りするようになったいきさつなどは不明である。久世広英は、琴月が大正6年に設立する東京家庭音楽会で、子爵の市橋虎雄(1892-?)、同じく子爵の山岡直記(1865-1927)とともに顧問をつとめることになる。山岡直記は、幕末維新期に剣・禅・書の達人として知られる山岡鉄舟(1836-1888)の長男である。

筝曲をヴァイオリンで

琴月の音楽遍歴をたどるうえで極めて重要な文章がある。昭和45年、79歳のときの回想記「音楽と私」の中の一節だ。前後の文脈から、いつのことかは正確に分からないが、大正2年から4年間の在学中か、遅くても大正6年ごろの出来事であろうと思われる。

谷中に移る前、千駄木の下宿には割合長く落ち着けたが、その後、近所に山岡清舟と言う琴の指南がおられ、私も邦楽が好きなので、臆面もなく他流試合とも言うべきバイオリンとの合奏を願って、琴と「千鳥」や「春の曲」などを合わせてもらった。(「音楽と私」昭和45年『この道一筋』p105)

東京音楽学校で琴月の専攻はピアノである。筝曲《千鳥の曲》《春の曲》をヴァイオリンで弾いたのはなぜなのだろうか。趣味なのか余興なのか。

琴月は、小学生の時から琴をかきならし、中学生の時には小遣いをためて買ったヴァイオリンを自己流に弾いていたという。琴月が育った商家で、筝曲を鳴らす人物がいたかどうかは確認されていない。14歳年上の長女と6歳年上の次女の2人の姉が琴を習っていたとしたら、琴月もそれを見て小さい頃から邦楽に関心を持っていた可能性はある。

琴の指南の山岡清舟は、山岡鉄舟の娘の山岡島子(1874-1947)である。主だった音楽人名事典などに記載がなく、それほど著名な筝曲家ではなかったようだ。島子は明治7年4月8日生まれで、昭和22年4月23日、行年73歳で亡くなった。鉄舟には、長女松子・長男直記・次男静造・三女島子・四女多以がいた。清舟の12歳上の姉である松子は、東京日日新聞の記者による聞き書きがあり、昭和3年にそれをまとめた『戊辰物語』という書がある。その略歴によると、松子は夫と死別したあと筑前琵琶を弾いたというが、正確にいつかは分からない。

山岡清舟は、山田流箏曲の初世高橋栄清(源太郎、1868-1939)に師事していたので、栄清の「清」と鉄舟の「舟」を2字をとって清舟と号したという。[1]大正2年の時点で39歳で、22歳の琴月と17歳離れている。

琴月はどんなきっかけで山岡家に出入りするようになったのだろうか。久世家と同じように子爵家に出稽古に行ったのか。それともたまたま近所にいた山岡清舟と知り合いになって筝曲合奏となったのか。琴月が残した文章からは読み解くことができない。

東京音楽学校には当時、山田流の筝曲家で今井慶松(新太郎、1871-1947)という教授がいた。今井から高橋栄清、山岡清舟という人のつながりで、琴月が山岡家に出入りするようになったのだろうか。この推測には少々無理があるように思える。琴月からみて、今井や高橋は相当上の立場にあり、その後琴月が開いた数多くの演奏会に2人がかかわった形跡が残っていない。

山岡家と縁戚関係に

山岡清舟は、室崎琴月が大正6年に設立する東京家庭音楽会で筝曲を教えることになる。見方をかえると、清舟の協力を得て、琴月は東京家庭音楽会を設立し運営することができたのである。清舟の教授は5年近く続いた。東京家庭音楽会が中央音楽会に改称された大正10年前半あたりで、清舟の名は見られなくなる。[2]

山岡家への出入りが縁となって大正7年2月、琴月は山岡鉄舟の義兄にあたる高橋泥舟の孫娘末吉操と結婚することになる。清舟からみると、操は叔父の孫娘(5親等)であり、琴月と清舟は縁戚関係になったことになる。

[1]「音楽と私」昭和45年『この道一筋』p105。『ひだびと』第3年第9号(飛騨考古土俗学会、昭和10年9月)も参照。

[2]『音楽年鑑』大正10年版(大正10年5月22日発行)、同大正11年版(大正11年4月4日発行)に琴曲の講師として、山岡清舟の記載がある。

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