【資料】「竹貫氏と圖書館」『読売新聞』1922年

竹貫氏と圖書館
        松美佐雄

竹貫佳水氏が逝去せられたと云ふので、自分は驚いて信州の講演地からもどつて來た。

氏の生涯四十八年を通じて讀賣文藝を煩はすべく餘りに文壇的ではなかつた事は少年文學者として當然の事であり、彼自ら肯定すべきでもあらうが、只一つ書いてみたい事は少年圖書館の事である。

少年圖書館、文庫、などと云ふ事は今や社會的施設の一項目として、誰人も驚異の眼を以て見るものもないが、日露戰役後はこの事業すら知らぬものが多かつた。

氏が竹貫少年圖書館を創設し、之を文部省に届出でたのは〓に明治三十九年であつた。文部省の係官はかくの如き私設の少年圖書館を、如何にして取扱ふべきかに苦しんで、徒に押問答に及んで居たものであつた。

氏は少年圖書館の性質を動的なりとした。

今日日比谷圖書館の如きが静的かり動的へ稍移りつゝあるに、既に十七年前文化的圖書館は、動的ならざる可らずとして、其の施設に向つて進んだ。

當時如何なる施設に對して、動的と呼んだであらうか、氏は少なくとも少年圖書館は固定的なものでなく、隨意に隨所に公開すべきものと信じてゐた。

自分も、氏のこの事業に共鳴した一人であつて、第一回を上野公園に開くに當つては努力をつくした記憶を更に新にするのであつた。

氏が明治三十九年の初春、この動的の圖書館を上野公園に開くに當つて、まづ缺くものは圖書館会費であつた。書籍は既に半公開的の少年圖書館を有して豊富と云ふべきであつたが、費用と云ふべきものは豊かではなかつた。

其處で氏は友人田村西男氏を説き西男氏の計営する三宜亭を会場に借りた。書籍の運搬費はなかつたので氏と自分は前夜四風呂敷に一包つつ書籍を背負つて終電車で上野にはこんだ、電車のなかで書籍が轉び出て、車掌の大眼玉を喰つたと云ふ滑稽もあつた。

開會日の朝も又青山を一番の割引電車で一風呂敷背負ひ二人で三宜亭にはこんだものであつた。

幸ひに天日麗かな日で、三宜亭の雨戸を斜めに、座敷の壁に立てかけ其桟へ書籍をならべて

『自由にとつてお讀みなさい』

と札をはつた。

今日日比谷圖書館の児童室はその形式の進化したものである。

巌谷小波氏もこの擧に共鳴してお伽話を試みられ、少年圖書館に必ずお伽講演会を附設すると云ふ事を、裏書せられたのもこの當時からであつた。

この事業は他日東京の日比谷圖書館に兒童室を設置する前提となつて氏が當時の圖書館頭渡邊又次郎氏を助けて、孜々として其建設に向つて猛進したことは、多くの知るところであつた。

要するに氏が、少年圖書館建設に向つて盡くしたる努力は、日本圖書館史に特筆すべきことで、實に不滅といふべきである。

【編注】『読売新聞』大正11年7月19日11面

(2021-01-23 21:23:29)

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