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光瑤の「剱岳八ッ峰」写真が判明

明治43年の新聞に掲載された石崎光瑤撮影の写真「針ノ木嶺の一部」が、実は明治42年夏に剱岳登頂時に撮影された八ッ峰の写真であることが2024年5月、判明した。

これまで光瑤の剱岳関連写真は、雑誌『山岳』の5枚が知られていたので、6枚目が見つかったことになる。光瑤は草創期の山岳写真家として知られながら、その写真は整理が進んでいない。2024年は生誕140年、これを機に調査の進展が期待される。

『高岡新報』明治43年8月15日2面
「アルプス記事」とあるのは光瑤の紀行文連載「日本中央アルプス跋渉」

「針ノ木嶺の一部」は、『高岡新報』明治43年8月15日付2面に掲載された。連載「日本中央アルプス跋渉」に付随したものだが、光瑤が2度目の針ノ木越えの際に、記事に合わせた写真である。針ノ木越えは7月31日か8月1日と推定される。当時は写真の送信現像製版に少なくとも2,3週間はかかる時代であることから、この「針ノ木嶺の一部」は明治41年に行った1度目の針ノ木越えでマヤクボカールの雪渓をとらえたのではないかと推定されていた。

しかし、マヤクボカールにしては斜度が緩く、山並みが針ノ木岳周辺と一致しないため、別の場所である可能性が予測されていた。

今回、新聞の原紙を詳しく調べたところ、背景の稜線が《劍岳の絶巓》という山頂記念写真の稜線とよく似ていることがわかった。さらに手前の稜線を探したところ、八ッ峰ノ頭からⅧ峰にかけての稜線と一致し、明治42年7月24日の剱岳登頂時に山頂で撮影と確定した。

中央は剱岳八ッ峰ノ頭。雪渓は長次郎谷右俣
背後の山は白馬連山で、はっきり見える2つのピークの右が白馬岳

石崎光瑤は明治40年から43年にかけて数多くの山岳写真を撮影し、山岳写真史のうえでは開拓期・草創期の5人のうちの一人とされている。

大正5・6年のインド・ヒマラヤで撮影した写真は特に有名で立山博物館が20年ほど前に整理し終えた。一方、明治末期の国内写真は、多くが美術館や博物館などに寄贈されているとみられるが、注目度が低いため整理が進んでいないのが実情だ。今回の八ッ峰の写真原版も、未整理の写真に埋もれている可能性がある。

2024年は石崎光瑤生誕140年。春には地元の南砺市福光美術館で企画展「知られざる光瑤の横顔」が開かれた。「山々への登山を通じて養われた自然への感受性」が画業に与えた影響まで指摘されたものの、立山博物館との連携は見られず、山岳関係の展示は目立つものがなかった。同館と京都文化博物館では、この夏から秋にかけて大規模な生誕140年記念展を開く。山岳関係にどれだけ踏み込めるかあらためて注目される。

今回の判明で、針ノ木越えの記述に前年の剱岳の写真をなぜ間違って合わせたのかという疑問が生じる。撮影者の光瑤自身が間違える可能性はほぼないので、新聞掲載の際に編集者が誤ったものと推定される。光瑤は針ノ木越えのあと上高地に行き、8月9日か10日ごろ槍ヶ岳に登頂したとみられる。掲載日前日の8月14日には、新聞社のある高岡に光瑤はまだ戻っていない可能性が高い。

光瑤が上高地で撮影した写真が7枚程度、『高岡新報』に掲載されている。これらの写真も原版が発掘されることが期待されている。

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