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大山神業略年表

(未完成です。随時、加筆・訂正していきます。)

超古代……神素盞嗚大神、大山で八岐大蛇を退治。
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古代……四道将軍・吉備津彦、現在の大神山神社鎮座地で祈願。一大神変が起り、賊徒を平定。
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大正12年3月24日~4月7日 出口王仁三郎聖師、大山山麓皆生温泉にて霊界物語57巻~60巻を口述。

昭和3年12月 大山山麓日吉津村に大本神しゅう別院開設。
「素盞嗚尊が八岐大蛇を退治したと言われるのは大山のことであり、この別院のある地がそのとき神庭会議を開いた因縁の地である。」(出口聖師)

昭和4年 出口聖師、大国以都雄氏に命じて水晶の玉を大山山頂に埋蔵せしめられる。

昭和4年11月14日から約一週間、出口聖師は頭山満、内田良平両氏と神しゅう別院で会談。

昭和20年8月10日 泉田武(後の瑞顕)氏、亀岡中矢田にて出口聖師より大山での拠点作りの命を受ける。
「大山は大舞台じゃ、重大な仕組がしてあって是非拠点をつくらねばならぬが、それをやるのは中々容易な事ではない。色々邪魔がはいる。鬼にならねばこの仕事はやり通せない。いずれわしも行かねばならぬ。必ずゆくからしっかりやってくれ。」(出口聖師)

昭和20年8月16日 泉田氏、大山村下槇原の家屋を買収、また、約二町歩の土地を東氏より借り受ける。(しかし、土地の所有者は東氏ではなく春日村であった。この転貸で後に紛糾が起こる。)

泉田氏、大国以都雄氏らに協力を要請。しかし大国氏のグループは一ヶ月余りで悉く下山。泉田氏及び数名の青年達の、苦難の開拓生活がはじまる。

昭和21年3月13日 泉田氏、鳥取県庁を訪ね、下槇原の土地を開拓用地に指定して、公示価格で買収できるよう援助してもらいたいと要請。

泉田氏、「下槇原開拓帰農組合」を組織し、県知事の認可を得る。

昭和21年3月30日 春日村議会、東氏の土地転貸の解消と開墾者(泉田氏ら)の立退き命令を決議する。

昭和21年6月9日 泉田氏不在中に周辺農民らの襲撃を受ける。これを「須村・半川事件」といい、地方の新聞も開拓地問題として報道した。

春日村、泉田氏を裁判所に告訴するなど、追い出し工作が続く。

過酷な状況の中で青年達も下山。昭和21年末まで残っていたのは泉田氏とその妻子、小川少年(泉田氏の妻の親戚)の四人だけとなる。

昭和22年正月元旦 泉田氏の妻、大白龍(後にタクシャカ竜王と判明)のほほ笑んでいる姿と、泉田氏が神界に昇っていくという霊夢を見る。
また、出口聖師その霊身を大山に現し、大山経綸の真相を泉田氏に告げたと言う。
これより土地問題が解決の方向へ動きはじめる。

昭和22年5月22日 県庁の担当者や春日村村長らとの会議が行われ、春日村は下槇原の36町歩余りの村有地を下槇原開拓帰農組合に売り渡すことを認め、泉田氏と和解することを約束。

同月(土地問題解決後)、愛善苑委員長・出口伊佐男氏と出口栄二氏、下槇原の泉田氏宅を訪問。懇談の結果、伊佐男氏は愛善苑として大山神業への協力を申し出る。
その後、泉田氏と愛善苑本部との協議が重ねられ、「聖師様の御意志を実行に移すため、先ず大山に神業経綸の拠点道場兼農場を建設する」という合意ができる。
また、国の支援で開拓を行うため、開拓後は入植者が登記の名義人になる。しかし所有権を主張しては聖地づくりができないため、個人的所有権は主張しない事で合意した。

昭和22年6月30日 愛善苑大山農場奉告祭・第一回実行委員会
「大山は神業と関係が深く、聖師様は大山の事を非常にお気にかけられ、以前よりその事を申しておられた。御病中にも日に数度も大山の事を申しておられる。(中略)信仰に基づく汗とあぶらによって開発し、愛善的聖地を建設するのであります。単なる農業が目的ではなく、教えに基づく地上天国の型を造り、神業推進の聖地をつくるのが目的であります。聖師様はしっかりやってくれと激励され、苑主夫人からも委員長からも重々お言葉がありました。」(出口新衛氏)

以後、信仰的には「愛善苑大山農場」、法的には「下槇原開拓帰農協同組合」という二重構造の農場となる。

昭和23年1月19日 出口聖師昇天。

昭和23年5月5日 愛善苑・出口すみ二代苑主、大山農場に来場。
国祖大神を奉斎。大山神業の重大性を強調、激励する。
「ほうきだいせん主のおほかみのまちにまちたるこのしごと」「伯耆大山農場の仕事神の仕組と知らざるや」「神の仕組のわからぬものは一人たりとも邪魔になる」「この仕組途中で消えて終ひなば神のいかりを夢な忘れそ」「神の声心みがいて聞けよかし三分になるとの声を忘れじ」(二代苑主詠)
以後、聖地づくりの理想に燃えて全国から信徒が多数参集、奉仕する。

昭和23年7月26日 泉田氏に、愛善苑代理人・三木善建弁護士から内容証明郵便で“デタラメな脅迫文書”が届く。
また、愛善苑は同じく三木弁護士を代理人として、岡山農地事務局に対し、農道工事中止申請書を提出。(愛善苑幹部が大山農場の糧道を断つべく策動。)

昭和23年8月10日 泉田氏及び農場奉仕者十数名、話し合いのため愛善苑に出向。(但し、二代苑主の臨席はなし。)
泉田氏の説明により、大国以都雄氏の謀略(大山神業の妨害)が露呈する。
「大国君、君のいうのとこれはまるでちがうではないか。」(東尾吉三郎本部長)
「私はだまされていた。」(三木弁護士)
大山農場奉仕の青年達、大国氏らを殴打。(大山事件)

「要するに大山事件とは、大山農場の創立者である私を、途中から参加した愛善苑本部が、事実無根のいいがかりをつけて、検事局に告訴すると脅迫し、私を農場から追放して三六町余の土地を横領せんとして失敗した事件である。この時点では既に八十八派の邪霊団が天恩郷を占領すべく侵入を開始していた。従って出口聖師の内命を受けている私が大山山に神業経綸の拠点をつくるということは、邪霊団にとっては最大の脅威である。故に邪神邪霊達は彼等の霊的系統に属する人間の身魂に憑依してあらゆる妨害行動を起こしたのである。彼等のその後の策動をみればこの事は絶対に間違いない。」(泉田氏)

教団側は真相を公表せず、大山事件とは「暴力団が大本の幹部に暴行を加えた事件」であるとし、その元凶が泉田氏であるとの悪宣伝を行った。

大山農場の奉仕者の間で愛善苑本部への不信感が募り、本部と絶縁して我々だけでやろう、という意見がでるようになる。

昭和23年10月 本部の日向良広氏・出口虎雄氏から泉田氏へ、「大山から亀岡本部の方へ少時移ってもらいたい。」という妥協工作がある。
泉田氏、条件付きでこれを承諾。

以後、教団は大山の聖地づくりを進展させず、大山農場の創立目的を単なる食糧増産運動へとすり替える。

昭和26年10月末 瑞霊聖師より泉田氏に、「大事な御用があるから速やかに大山に帰れ。」との霊示あり。
泉田氏、本部奉仕を辞め大山農場に帰るも、山本石太郎開拓組合長は泉田氏の生活拠点である土地を返還せず。

泉田氏の、いわゆる“裏神業”奉仕が開始される。
昭和26年10月26日から昭和27年1月17日の85日間は大山農場に於いて、昭和27年1月18日から3月30日の71日間は大山山麓の赤松池畔に於いて、七十五声の言霊を奏上。

昭和27年9月8日 北伊勢・錦の宮の亀の玉子五個のうち一つを、瑞霊聖師の命により井田実氏ら5名、赤松池畔に埋める。

昭和27年9月10日 泉田氏ら11名、赤松池畔にてタクシャカ竜王救出の神事を行う。

以後、各地で実演された一連の裏神業は、昭和28年10月、大山に於いて終了。
(つづく)

《 参考文献 》
泉田瑞顕著『大山経綸』
『霊峰大山と霊界物語』大本信徒連合会青年部 他

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