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6/8 あつい、なつばて寸前

お昼休みに出勤しながら昨日のぶんのnote日記を書いたけど、なんか病んでる人みたいでやばい。

最近のテーマは、にこ先生という人と「今ちょっと話せる?」という企画で頭をガーンと殴られたような出来事が発端となって考えていたりすることだ。にこ先生のせいで、悩んでしまっているんだ、と人のせいにすると、だいぶ気が楽になった。ちくしょう。

山形に遊びに行ったら美味いもの食わせてもらう約束をしました。かならず行こっと。

今日はデスクにかじりついて、歯を食いしばりながら頭をひねる仕事だった。ううう、つらい。そうやって悩んでいる時間は、もはや、仕事楽しいなんて微塵も思ってないはずなのに、なぜ苦しみを楽しいと感じてしまうのだろう。人間の不思議。

ずっと歯を食いしばりながら、へへへと上澄みは楽しくて笑っちゃう。一緒に仕事している人達と苦労を共にしている実感があるから、耐えられるのかもしれない。仲間って大事なんだな。

ものを作る上では、孤独が欠かせないと思っているけれど、仲間も同じくらい大切だということに気付かされる。

ここ最近、毎日noteを書くようになってから、自己内省をして、文章に表現する時間が苦痛。もっと楽しげなこと書けばいいのにね。ばかみたい。

そういえば、気持ちを表わす言葉、嬉しい楽しい悲しいつらい寂しいって、どれ1つとして、その時の気持ちに寄り添ってくれてたことなんてないな。

素直な自分でいたいとき、自分の感情を磔にするような、言葉という存在はかえって邪魔になる。飛び立つ感情はもっと豊かなのに、標本にして殺してしまっているよう。

ココロはミルフィーユという曲を作ったけれど、その中の「空白が語るなら」ってそういう意味だったな。感情の周囲を取り囲むように、事実や結果がその形を示す。感情のところには、確かな言葉で表現できるような物理性はなにもない。空白。でも、ぽかんと空いたその場所に、本当に大切なことがある。

不在していることが、ずっと続くこと。それが唯一、不在の証明の方法。

たとえば神様とかね。居ないことが、神の無限性や神々しさを表現している。胡散臭くない何よりの理由は、不在することなのだ。たぶん。

今はもう側にいない人の幸福をそっと祈ることや、遠くなっていく存在こそを愛おしく感じてしまうのも、それかな。私たちはいつも、惜しがっているズルい生き物だね。

誰にどう思われようと、私が私自身を絶対に好きでいよう。いちばん近くにいて、思考がうつり変わっていくことを生中継で感じている存在。近くにいるからこそ、存在証明が確実であるから、いちばん愛するのが難しい。それが我。

我思う我あり という有名なあれですね。


買い物頑張ってして帰るぞ!もっと自由な心でわくわく笑っているぞ!


エチカ






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