8/31雨があがり、通りすがる煙草の煙に秋を感じる

仕事終わり、残業している人もまばらで、よく話しかけてくる先輩と二人きりになりそうだと察知し、足早に退社。

いつもなら、笑って受け流せる内容でも、いちいち突っかかってしまいたくなるPMSの期間。自分でもそんなことになる事態は避けたいので、こういう工夫も必要だと自分に言い聞かせつつ。逃げるように帰ってきて怪しまれていないかなどと気を揉む。

濡れた道路、雨上がりの匂いがする。ふと、歩きたばこをしている人とすれ違う。赤い火が指の側で燃えている。うす暗闇の中で光りながら、私の視界の外へと消えていく。大嫌いなはずの、たばこの匂いが鼻に届くが、不思議とそんなに不快には感じなかった。

たばこは、もともと嫌いだったわけではなく。ある時、たばこの煙をひどく吸って、喘息をこじらせたときからのトラウマ。以前は、喫煙席だらけの喫茶店で過ごすことも難なく、むしろ煙が立ち上るのを見るのは好きだった。

私の祖父は亡くなる直前まで、たばことビールを欠かさなかった。私はマメで、優しく、フィルムのカメラで写真をよく撮ってくれ、庭木の世話を丁寧にする祖父を大好きだった。しかし、祖母も母もそれには同意してくれない。私には見えない、祖父の姿が母たちには見えていたという。昔の人だし、亭主関白的なところも強かったようだ。

最近また、向田邦子の小説やエッセイ、彼女について書かれた本を読んでいる。向田邦子はドラマ脚本家だったこともあり、映像の浮かびやすい、スムーズな物語の展開で、読むに飽きない。文体が、軽快なリズムだ。それにも関わらず、家族のはなしや女の姿を描く際には、心をえぐるような表現がある。観察力と暴露力。

女でありながら、どうしてこうも女を描くときに正直になれるのか。女としてのネタばらしが過ぎる、とも思う。彼女が、ついに独身をつらぬいたのにもそんなことが影響しているかもしれない。

女は、自分が女であることをひた隠しにしながら、生きていると思う。それは、中性的になるという意味ではなく、むしろ着飾ったり、あどけなさや屈託のない笑顔で愛想をふりまくときにだ。私が、この人は女だなと思う人(それは大抵異性にも、同性にもモテる人だが)は、とにかく演じることに長けている。女の本質は、その演じている中身にある賢さではなく、演じている外側の部分にあるような気がする。本質が外側にあるというのは、不思議なものだが、では中身はなにかと問われると、まったく見えないものなのだ。中身にあたるその賢さは、空っぽである。空虚であり、孤独であり、不存在であり、永遠だと思う。

なにやら抽象的で哲学っぽい話になってきた。

スマホの暗証番号を、以前数秘術の占いで言われて、「女性としての魅力がアップする」みたいなナンバリングにしている私。その数字を入力する度に、自分が女であることについて考える機会を持つ。それこそが、数秘の魔法ではないかと思う。私が女であることについて考える度、私は女になる暗示を自分でかけている。

「人は女に生まれるのではなく、女になるのだ」というボーヴォワールの言葉は、なるほどこういうことかと納得する。

ところで、仕事終わりにコメダ珈琲で文章を書くととても良いな。ここの店舗は、珈琲みたいに色の黒い(日サロ通い?)優しく丁寧なおいちゃん店員さんがいた。仕事の仕方がとっても素敵だ、また来たい。

あまりに大きすぎるソフトクリームが乗ったココアを飲みつつ。

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エチカ


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