日記11/23〜26かかわりあい
11月23日(月)
点描の唄を録音。むずかしいので試行錯誤。
私が一人では生きられないんじゃなくて、みんなで生きるために私がいるんじゃないか?と最近の考え方の変化。してもらってるから、してあげたい。腹立つこともあるけど、ご機嫌な私で生きるぜ。
について補足説明。
私は私自身のために生きている。それは自己中心的な考えでもなんでもなくて、事実的に自分の心臓を自分で動かしたりすることと同じこと。
大学生のときに悩んだこと。世の中のために動きたいと思っても、結局は自分のために動いていることに回帰してしまう。行動の動機を突き詰めていくと、自分の体験や心象のなかからしか生まれないことが原因である。最終的には、自分が行いたいから行う、という自己満足的善行にたどり着く。どうしたら人のために、世の中のために生きられるのか、公(おおやけ)な「志」というものを、持つことができるのかと悩んだ。
その時は、自己満足でもいいから、善いと思うことを続けようという結論に至った。
しかし、最近自分の能力を会社のために使うようになって不思議な感覚に陥っている。それはきっと「仕事」というかたちで、お金という見返りを受け取りながら、自分の能力を発揮する機会を得たことで得た感覚だ。
自分が努力して頑張っているつもりで働いていても、私は私一人の力でここで仕事しているわけではない。それはフリーランスであっても、仕事をしてなくても同じこと。私は一人では生きられない。
考えが変わったのは特にここからで、私ががんばっていることは、私のためではないという心境の変化。もちろんお金をもらわないと生きられないので、お給料はいるけれども、いわゆる「社会の歯車」になることに違和感や嫌悪感がなくなったという感じかもしれない。
ビジネスの意味や、社会的能力での協調性ということ以外の部分で、はじめて協調性の本来の意味を取り戻したような。いい意味での野生的な感覚。
一人で住んでいると忘れてしまうこの感覚。尊敬するご結婚をされている方から「私がいい状態でいることは、私のためではない」という言葉を伺って、いい意味でショックを受けた。
SDGsのことを考えていても、自己満足として世界のために善いことを行っていても、世界のために善いことは自分にとっても善いことである必要がある。それは世界のなかに自分が含まれているから。
誰かを幸せにしたかったら、自分が幸せに。誰かから支えられているから、自分がなにか別のことで支える。それは双方向のWinWinとか、恩返しとかいう規模のものではなく、周りの運命の流れを大きく巻き込みながら、同時にものすごくシンプルな生命体の仕組みなんだろうな。
という次の段階の悟り。
11月24日(火)
三連休明け。夜にうまく寝つけず、きつさあふれる仕事。
楽しみにしていた作品が届き、忙しくも楽しくあちこちに連絡してとびまわった。
豆乳鍋をつくってたべた。
11月25日(水)
仕事の時に、勤務態度として完璧にふるまえる自信は、本屋のアルバイトのときからで、接客の楽しさにも生かされていたけれど、それにはやはり独特の「ノウハウ」があるなと実感する日々。すごく細かいことだけど、どこに気をつけたらいいかのポイントはいくらでも語れる。私個人ではなく、普遍化できるかはわからないけど。
集団のなかでうまく生きていく能力は高い方なので、その「ノウハウ」を言語化したら、需要はありそうだな・・・と思う。
社会のなかで、実践できておらず「職場の人間関係の構築」に苦労している人は、とても多いはず。それはもちろん、効率的で優秀な仕事術にも通じるもので、自分の意見を通しやすく、また的を射た意見を言い、結果を出していくためにも重要なスキルだと感じる。ただの忖度や気遣いではない。
11月26日(木)
お弁当をつくれずにいることで、コンビニでお昼を買ってしまうことが心ぐるしく、美味しくないなあと感じる今。
ご飯を炊いておく、ゆでたまごをつくっておく、あとは冷凍でもいいからなんか詰める。ということをしたいのに、時間と体力の管理ができていない今の状況ではとても難しい。
お弁当をつくるためには、どこかの時間・体力の電池を省エネして、余裕を生み出さなければいけないと思う。
あと晩ごはんを鍋にすると、翌日の弁当には詰められない!!!
エチカ
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