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「生きろ」への違和感
有名な方の自殺が日本中でニュースだ。
#生きろ への違和感について、語らせてほしい。語るべきだと思った。
最初に申し上げると、私は自殺肯定者でもないし、自らは自殺しないことにしている、今のところ。
人間が生きることは皆さんご存知のように、思い通りにはいかない。それは他者の存在がある限り、金がある限り、物があり、社会がある限りなくならない。動物のようには生きられない。
自殺したくなるのも無理はないと思う。それくらいひどい社会だ。原因ならいくらでも転がっている。
なにが原因にせよ、悩みの大小はあるにせよ、皆が悩む権利を持ち、その人なりの抱え方をする。大きさが大きければ、偉いわけでもない。小さければ蔑ろにされていいわけでもない。
そんな中で「生きろ」と、「頑張れ」と、「大したことないだろ」、「まだやれるはず」、「お前ならできる」と言われることの辛さを知っているだろうか。
死にたい人はそんなことは百も承知だ。
死にたい人は、この世で自分の意思決定ができないことがつらい。それは内的要因・外的要因、色々あると思う。
辛くて休みたいのに、休めない。休みたいと言えない。お金が足りなくて働きたいのに、働く場所がない。頑張りたいのに、頑張れない。生きたいのに、生きるのがつらいのだ。
そんな人たちに対して「生きろ」なんて残酷極まりない言葉だと思う。「生きろ」キラキラした暴力的な言葉だ。そういう言葉こそが、死にたい人を死ぬことへと後押しする。
もう無理なんだって!とアクセルを踏むきっかけになる。
そのことを、まだわからない人がいる。輝く友情でも、愛情でも、どうにもならないことがある。
すべては自分が自分を許すことでしか救われない。他者がその人の人生に介入できる余地があるとすれば、「許し」のみだ。
死にたくてもいいし、どうしても死ぬと君が決めたのなら、私はその悲しみを背負って生きていくよと許してあげるべきではないだろうか。
ただ、大学1年生の時に思った。
私は自殺はしないだろう。
それは、私が周りを許しているから、許されていることがわかり、生きていく自信を得たからだ。何があっても生きていけると思った。
高校の時、死にたくてたまらない思いをして良かった。カウンセラーの先生には「生きなきゃいけない」以外に、やるべきことなんてないと言われた。
私は「生きなきゃいけないこともない」という札を選び取りたい。全てをyesと許していきたい。
死にたい人に必要なのは、「死ぬな」と道を狭めることではなく、「生きることができるかも」と道を増やしてあげることなんだ。
エチカ
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