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哲学者はいつも不器用

自分が哲「学者」だとはおこがましくて、言えない。

大学4年間で哲学の入り口をちらりと垣間見ただけで、ただ考えるのが好きなだけだ。

でも体質として哲学的ではあると思う。

哲学者はみんな不器用なんだな、と思っている。

いかに生きるか。自分の目指す生き方に実は囚われていたりもする。自由を唱えた哲学者も、自由に生きることに囚われる。考えは変わっていくと唱えたとしても、変わっていくことを常に見つめることに囚われる。

哲学は言葉と共にある。言葉は世界を切り取るツールだ。切り取ることは、限定すること。それ以上の広がりは見せない。

しかし、限定されることで我々は指針を見つけ、他に足をつけて生きることができる。それらを美しいと感じることができる。

哲学者たちは、どんなに素晴らしいことを言っていたとしても、己の思想と自分の行動の差にいつも苦しむ。思想に沿った生き方をしようと努力する真面目な哲学者ほど、その苦悩は大きい。

トップの写真は古代ギリシアの哲学者ソクラテスだが、彼は自らの善を貫くあまり死刑となって亡くなった。権力によって不当に囚われたソクラテスを弟子たちは救おうとした。檻から逃げることはいくらでも可能だったそうな。しかし、ソクラテスは自分の善を貫いた。


果たして、自由とは囚われないことなのか。それとも、囚われていたとしても自由でいることができるのか。

知を愛するものとしては、後者だと信じたい。

生き方の選択なんて、無数の可能性がある。不器用だったとしても、効率的でなくても、私は私にとっての善を選択する。

時には間違えることもある。こちらが善だと信じて突き進んでいたら、誰かを傷つけていたこともある。そのときは学ぼう。償いと恩返しで生きていこう。

誰がこの不器用な人生に寄り添ってくれるだろうか。もしかすると、この知の道はとても孤独な道なのかもしれない。

しかし、見返りへの欲求を持つことは自由を満たさないのだ。全ては自己満足で成り立っていると改めて思う。自己満足がなければ、人は0から1へと動くことを苦痛に思い始める。

金銭、成果重視の労働が苦痛なのはこのためである。さらに次元の高い自己充足感、やりがい、指針の達成など自分主体の動機を伴う行動がなければ世界は苦痛に満ちる。欲求からの行動は隷属的だ。

ここでまず、0から1へと事を進めることができる。しかし、強欲な人間はただの1では次第に満たされなくなる。

私のこのエゴまみれの考え方も、行動も、それが善でなかったら、つまり実際に他者のために役立つ結果を生み出さなければ、非常に醜いものだろう。醜いものは悪ではないが、憎悪・嫌悪を生む。なるべくなら、幸福を生み出したい。

ここでまた、エゴのうえにエゴを重ねることになっていることにも気づかず、私はより高次元へと視野を広げる。どこまで行ってもエゴから抜け出せることはないのだ。

だから今日も私は考える。どんなに頭でっかちで不器用で、自らの思考に苦しめられたとしても、0から1へと進むために。自らが自由であるために。できるならば、結果としてのその1が幸福なものであるために。


エチカ



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