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ハミングバード①【2003~2015】

私は生まれた時から変な人間だった。


ベビーベッドにいる時から私は“作曲遊び”をしていた。頭の中で勝手に流れてくる楽器隊のメロディに合わせてリードのメロディを適当な歌詞と共に歌う。


独り言の進化系を生まれて間もない頃からやっていた訳だから、傍から見たら相当心配される存在であったことは想像に容易い。それこそ、3つ上の兄は重い知的障がいを持っており、弟分の私も「ヤバくね?」と親に思われていたのではないか、と思う。



作曲遊びという究極の暇潰しをし続けているうちに私はリズム感が身についていった。母からはドラムが似合うと思われていたようだ。


そんな母も学生時代は音楽学校を卒業し結婚後もピアノを嗜み続けていた。母の弾くピアノの音色をなぞる様に私の身体には音感が宿っていった。


母のピアノの演奏会に足を運ぶ時は、本番の緊張で手元が少し狂っている演奏を聴きながら“ここの音が外れている”ポイントを数え、無邪気に母に暴露するのが仕事だった。

↑弾いてる方は知らない人



振り返れば思いのほか音楽に恵まれていたような生活だったが、私にとって音楽はただの装飾品に過ぎなかった。作曲遊びもただの暇潰しに過ぎず、ピアノも母から教わろうとすれば不仲になってしまうだろうという子供ながらの直感があり、音楽を自分から触れよう、とは、到底思えなかった。



少々マザコン気質だった私は、小学校に入ってからも母と遊びに出かけることが多かった。そんな中でお決まりの場所となっていたのがカラオケだ。


リズム感や音感をある程度身につけていた私は歌う事に対して苦がなかった。初めてカラオケに行ったのがいつか思い出せないくらいに歌うという動作は自分に馴染んでいた。


声変わりをしていなかった私は女性ボーカルの曲を好んで歌っていた。それはそれは好きだったドラえもんのOPとか、アニメは見た事ないのに歌だけは何故か知っていたポケモンのOPとか。


カラオケの回数が増えてくると、レパートリーを増やしたいという欲から母の持ち曲も盗んでは歌う。


「口付けを交わした日は ママの顔さえも見れなかった」


言葉の意味は深く考えず、覚えているメロディに流れる歌詞を当てはめながら無心に歌っていた。本人映像として流れるMVを何度見ただろうか。



小学校に上手く馴染めなかった私はエスカレーター式に地元の中学に進学するのを嫌がり、中学受験を自分から志願した。人生のターニングポイントにもなるような期間、装飾品を相手にする余裕は無くなる。カラオケには行かなくなり私の音楽は作曲遊びと母のピアノのみに戻っていった。


そして受験を終え、身の丈に合わない進学校に偶然受かってしまった私は、進学後、人生を揺るがすひとつの蜜を見つける。




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