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業務時間内に夫を殺すためのDX入門

【あらすじ】
フルリモートのスタートアップ企業の広報として働くナオの元に、同僚のデザイナー・くららが夫を殺害遺棄した疑いで逃走中というニュースが飛び込んでくる。緊急のオンラインミーティングが開かれるが、容疑者の顔写真としてニュース映像に映し出されたのは、社員の誰も見たことがない、知らない女の顔だった。同僚の「くらら」とは、一体何者だったのか? 様々な部署の社員とのオンライン1on1でくららについての話を聞くにつれ、ナオの胸の中でこれまで知らなかったくららの一面が姿を現し、事件の真実が徐々に像を結び始める。

 夫を殺したいと思ったことはあるかと問われ、殺さないようにしなきゃと思っていたことならある、と答える。不思議と、殺される、と思ったことはなかった。
「あなたは三年前に始まったのね」
 とくららが目を細める。
「わたしは三年前に終わったのに」
 結婚してから三年間の長いブランクを持つくららと、離婚してから三年間の短いキャリアを持つわたしと、出会うべくして出会ったのだと思う。くららの手に自分の手を重ねると、
「オセロみたい」
 そう言ってくららは笑った。
「年の割に小さい手だよね。血管透けてるし」
 そう言って引っ込めようとしたわたしの手を、くららの手がかたく握った。
「わたしの人生はあなたに預ける。そのかわり、あなたはどんな時でもわたしを救って」
 頷くしかなくて頷くと、くららのしなやかな小指がわたしの小指に絡みつく。

 午後イチのオンライン会議が終わり、そろそろ布団を取り込んだほうがいいかな、とベランダ側の窓からナオが曇り空を見上げた時だった。
 ツコココッ、とキツツキが木の幹をついばむ音がして──いや、実際そんな音なんて聞いたことがないし、このチャットアプリの通知音が響くたび、ナオの頭に『森の妖精・ゆとぴりあ』の間抜けな顔したキツツキのキャラクターがポンと浮かぶのだけれど──パソコンヘ目を戻したナオは「新規通知」をクリックした。開発チームの高橋からのダイレクトメッセージだった。フルリモート企業であるナオの勤務先は、社員同士のコミュニケーションツールとして、このチャットアプリを導入している。
「テレビつけて、6チャンネルみ」
 いつもと違って絵文字も記号もついていないし、よくわからない「み」がついている。とりあえずなおナオは言われた通りにした。
「こっちは『警視庁捜査一課』の再放送やってるよ」
 同じ時間帯でも、関西と関東では放送されている番組が違う。ナオの暮らす実家は、大阪天満宮のほど近く。高橋はたしか埼玉のあたりだ。なおがメッセージを返すと、すぐにツコココッと返信があった。
「いま会話できます?」
 なおがメッセージに「OK」のリアクションスタンプを押した瞬間、通話呼び出し音が鳴り響いた。そう、このアプリはチャットだけでなく、ダイレクト通話もできる。
「まず誰に言えばいいのかわかんなかったんすけど、広報かなって」
 早口に切り出す高橋に、「はーい、広報です」とナオは応える。
「いまテレビ観てるんすけど」
「なんで?」
「いや俺、普段テレビ観ながら仕事するんすけど、それは置いといて、月野さんの旦那がテレビ出てます」
 「月野さん」とは、デザイナーのくららのことだ。旦那さんはたしか、愛知にある老舗製造業の社長だったはず。くららはあまり家族の話はしたがらなかったけど。
 ナオは、「ふーん、すごいね」とあくびをしながら返すが、一方の高橋は息巻いていた。
「小竹さん、すごくない方のやつっす。やばいやつです」
「は?」
「殺したっぽいっす。月野さんが」
 え?、となおは短く答え、でも、「え?」の先に続く言葉を見つけられず、「え? え?」と繰り返しながら「月野 愛知 社長」と、Webブラウザの検索窓に入力した。ヒットしたトップのニュース記事は、「愛知県名古屋市 繊維メーカー社長、遺体で発見」という速報の見出しだった。記事は、昨晩から行方不明となっていた繊維メーカー社長のくららの夫が、今日の午前、崖下で遺体となって発見されたことを報じていた。
「警察は事件後、連絡が取れない月野さんの妻(31)が何らかの事情を知っているとみて、行方を捜している」
 の結びを読み、「え? 妻の年齢って必要?」というところがまず気になってしまうナオは、自分が混乱しているのだと気づく。
 え? だって、今朝もいつものようにチャットのやり取りをしたし、全社オンライン朝会にだってくららはいつもと変わらない様子で出席していたし。
 え? なんで?
 画面をスクロールするナオの頭の中をテキストが上滑りしていく。
「『何らかの事情を知っている』って、100%犯人すよね」
 電話口で興奮気味にまくし立てる高橋がちょっと楽しそうな様子なのが気に触るが、ナオは、「うー」と唸るしかない。
「これ、どうする感じです?」
「どうするも何も」
 ナオの頭に、ずっと昔に広報担当者養成講座で習った「危機管理広報」「マスコミ」「記者発表」の言葉が渦巻き始めるけれど、同僚が逮捕された経験なんて、前職を含めこれまでにない。入社して半年。広報はナオただ一人。はじめてのスタートアップ企業、はじめてのフルリモート勤務だった。今後降りかかってくるさまざまな厄介事が浮かび、ナオは身震いした。
「まずは崎本さんに確認してみる」
 と言ったところで、ツコココッと経営企画部の崎本から、チャットが届いた。さっき検索したニュース速報のリンクとともに、
「本件、経営側で諸々確認中なので、動かず待ちで。情報集めといてください」
 と一言添えてあった。
 高橋との通話を終えてからもしばらく動けず、ナオはチャット画面に映るくららのアイコンをぼんやり眺めた。十名ほどの他の同僚のアイコンにはログインを示す緑のマークがついているのに、くららだけは白で「離席中」と表示されていた。
 『森の妖精・ゆとぴりあ』の「しろうさぎさん」のイラストが、くららのアイコン。同期入社のくららとはじめて交わしたチャットは、
「もしかして月野さんも『ゆとぴりあ』好きなんですか?」
 だったことをナオは思い出す。くららからのハートマークのリアクションスタンプ、それから送られてきた「しろうさぎさん」のオリジナルイラストがうれしかったことも。さすがはデザイナー。ナオと同じ31歳だというのに、専門分野で輝かしい実績を持つくららと、新卒の就活がうまくいかず、派遣社員として職を点々としてきた自分自身と。心身を病み一人暮らしのアパートを引き払い実家へ戻ってきたナオにとって、健康を害してまで働き詰めた前職のツテで奇跡のように入社が決まった今回の職場が「正社員デビュー」であり、くららは初めての同期だった。『ゆとぴりあ』という共通の話題がなかったら、きっとナオはくららのことを妬んでばかりだっただろう。
 『森の妖精・ゆとぴりあ』は、うさぎやねこ、キツツキにイグアナなど、個性豊かな動物たちがまったりのんびりと暮らす森がコンセプトのキャラクターグッズだ。なおが好きなのは、「しろうさぎ」さんと「くろうさぎ」さん。片耳の折れた白いうさぎと黒いうさぎはおっちょこちょいの半人前だけど、二匹で協力しながら、みんながびっくりするようなとびきりのミラクルを起こしてみせる。
 くららは自分に自信のない「しろうさぎ」さん派、ナオは人見知りで恥ずかしがり屋の「くろうさぎ」さん派だった。ナオとくららはこれまで、しろうさぎさんとくろうさぎさんのように息を合わせて、出稿広告のギリギリの納期に対応し、複雑な座組み内容のプレスリリースだってこなしてきた。リリースの配信日が迫っており互いにいっぱいいっぱいの時でも、「そっちは大丈夫?」「何とか!」のやりとりは欠かさなかった——。
 これからの自分の心配事ばかりで、今のくららの気持ちにちっとも思い至らなかったな。
 ナオの胸が少し痛んだのは、だいぶ濡れてしまった布団をあたふたと取り込み終えてからだった。

 夢を見ているような地に足つかない心地で、ナオがかろうじて集めた情報によると、くららの夫の死因は硫化水素中毒。死後数日が経過しており、一昨日の3月1日午後から夕方にかけて、くららと暮らす名古屋市内のアパートで死亡したと推定されている。翌2日夕方、「社長夫妻と連絡がとれない」という社員からの通報を受けて捜査が始まり、3日の午前11時、つまり今から二時間ほど前に、福岡市内の道路から20~30メートルほど下の雑木林で遺体が発見された。
 室内に荒らされた形跡はなく、乗り捨てられた車は雑木林にほど近い県道で見つかった。警察は、殺された社長の妻であり、依然音信不通のままのくららの行方を追っているという。
 しかし、ナオにはいくつか引っかかることがあった。パソコンに一昨日のカレンダーを表示する。クラウドサービスで管理されているカレンダーは、社員全員のその日の予定を表示することができ、ナオとくららは間違いなく、夫の死亡推定時刻である当日の18時から18時半は、オンライン上でミーティングをしていたのだった。二人だけのミーティングだった。もともと予定していたわけではなく、ナオが来週頭に入稿する出稿広告のデザインをくららに相談したくて、急遽組んだ予定。数日後に控えたプロダクトのリリースに向けてくららは大忙しのはずだったが、「いいよ」と快く応じてくれた。
 グラフィックデザインもWebデザインも、プロダクトのUI/UXデザインも、およそデザインと名のつくすべてにおいて豊富な経験を持つくららは、どのチームからもひっぱりだこだったが、本人の柔和な雰囲気からは想像もできない人間離れした業務スピードを誇り、どんな制作物も納期に遅れたことがない。でも、ミーティングは別。ちょくちょく遅れる。一昨日もナオは、くららがオンライン会議に入室してくるのを待つ間にコーヒーメーカーを洗い、門灯をつけ、風呂自動のスイッチを入れた。
「ごめんなさーい、おやつ準備してました!」
 5分遅れでミーティングににこにこと現れたくららは西日を浴びて輝いて見え、ナオは思わず目を細めた。
 硫化水素が充満していたかもしれない、そうでなくても夫が死んでいる部屋で、おやつを食べながら平然とミーティングってできるもの?
 ナオは思い、でもすぐに「そうか、夫が死んだのは室内とは限らないものな」と思い直す。
 ナオの会社に、勤務場所の指定はない。大抵の社員は自宅で業務を行うが、時にコワーキングスペースやカフェを利用する者もいる。あの時、くららがどこにいたのかはわからない。オンライン会議ツールを利用する時の背景は、会社指定の白地にロゴ、チーム名と名前の入ったもので——これもくららがデザインしたものだった——、実際の背景は画面には映らないのだから。
 ナオは、一昨日のくららとのチャットを見返してみる。リリース対応を爆速で終えたくららは、今朝、依頼していた広告のデザインまで仕上げてくれていた。『お待たせ! こちらでいかがでしょう?』の一言に添付されたデザイン画像はイメージ通りで、ナオは「ありがとう」「すごい」「神」のリアクションスタンプを連打していた。
 それから少し話が脱線して、次のゆとぴりあコラボグッズの情報を交換し、
『絶対ゲットしなきゃ』
『オンラインは運だから、確実に手にするなら現地だよね』
『平日だから有休申請しないと』
『高速バスって今から予約できるかな』
『一応事前抽選も申し込んどく?』
 とひとしきり盛り上がった後、でもナオが共有した事前予約抽選申し込みフォーム入りのチャットに、くららからのリアクションがつくことはなかった。
 あんなにスケジュールが立て込んでいたなか、マルチタスクをきっちりとこなすくららに、夫を殺して崖下に捨てる余裕があったとは思えない。
「うん。100%、何かの間違い」
 声に出して言ってみると少し心強くなり、よしコーヒーでも淹れて落ち着こうと、ナオは台所へ立った。
 それにしても、もし仮に、あり得ないけど万が一、くららが犯人だったとするならば、なぜ、夫の遺体を遺棄しにわざわざ福岡まで行ったんだろう。普通、遺体を捨てるとしたら、いや、普通は遺体を捨てることなんて滅多にないかもしれないけれど、もうちょっと近場にすると思う。わざわざ見つかる危険を冒して名古屋から福岡までドライブなんてするだろうか。コーヒーをすすりながらナオが悶々としていると、ツコココッと通知音が鳴った。崎本からの全社連絡だった。
『@全員 月野さんの件、今から緊急全社オンラインミーティングします。』

 <recording in progress >

「色々とおかしくないか?」
 崎本からの概要説明の後、口火を切ったのは営業担当の佐々木だった。警察対応中のCEOを除く全社員十人分、四角い小窓のように切り取られた画面のひとつに鍛え上げられた佐々木の二の腕が映っている。
「冤罪の可能性はないだろうか?」
 そう言ってぎっちりと両腕を組む。佐々木は北海道帯広市に住んでいるけれど、年中Tシャツで腕を出している。「北海道は室内がめちゃくちゃ暖かいから」と本人は言うけれど、札幌市在住のカスタマーサクセス担当・平原がセーターにストールを巻いているところを見ると、そればかりでもないような気がナオにはする。
「お掃除中のうっかり事故だったんじゃないかしら」
 経理担当の新田が首を傾げ、そのんびりとした口調に、全員が「そうだよ事故だったんだよ」という気持ちになりかけたところで、崎本がピシャリと言い放った。
「事故だったとしても、そのあと崖に投下したらだめでしょ」
「月野さんのことだし、うっかり落っことしちゃった、っていうのはあるかもしれないすね!」
 高橋の笑い声だけが響き、
「あれ、ここ笑うとこなんすけど」
 という高橋の呟きはしかし、
「人が死んでるんだぞ!」
 という佐々木の凄みのある声にかき消された。
 ここでいつものように、「ごめんなさーい、ちょっとトイレ行ってました!」とくららが慌てて入ってきたらどんなにいいか、とナオは唇を噛む。「ごめんなさーい、時間30分間違えてました!」でも、今日ばかりは許す。ナオは手の中の「くろうさぎさん」のマスコットを握り締めて言った。
「現在、当社で情報の収集及び調査中ですので、本件に関しては皆さんからの個人的な発言は控えるようお願いします。もしも報道機関から問い合わせがあった場合は、広報が対応するので繋いでください」
 そう言いながらナオは、頼むから問い合わせなんてありませんように、と「くろうさぎさん」をぎゅっとする。膨らんだお腹が押され、「ぷきゅう」と音が出た。
「それでは、皆さん業務に戻って」
 崎本が言いかけたところで、
「あ、チャットにコメントきてます」
 と人事の丸山が声をあげた。オンライン会議ツールでは、音声での発言以外にチャット欄へもコメントができる。ナオはついつい話に夢中でコメントを見逃してしまうのだけれど、くららは逐一気づき、丁寧に拾うのが得意だった。
 コメントは、開発チームの神谷からだった。
『月野さんは、遺体を車に乗せたままコワーキングスペースへ寄ったんでしょうか?』
「神谷さん、どういうことですか?」
 ナオが尋ねると、神谷はびっくりしたように肩を振るわせ、うつむいてしまう。バックエンドエンジニアの神谷と広報のナオは日頃業務上の絡みがないということもあり、神谷が喋るのをナオはあまり聞いたことがない。
「神谷さん?」
 ナオが画面に映った神谷のつむじに声を掛けると、ツコココッとチャットアプリの通知音が鳴り、
『@小竹ナオ これ見てください』
 と、あるスレッドにメンションされていた。元を辿ると、昨日、「フリートーク」のチャンネルに投稿されていた画像だった。フリートークは、チャットアプリ内で業務に関係あることないこと社員が自由に話題を投稿できる場所で、それぞれの地域の名物紹介だとか、各地で開催されたイベントだとか、最近観た映画の話などの投稿で盛り上がる。
「市内に新しくできたコワーキングスペースへ行ってみました! すごくおしゃれ!」
 と書かれたその投稿はくららによるもので、一枚の画像にはピースサインと、観葉植物の茂る木目調のコワーキングスペースが映っていた。もう一枚の画像には、コーヒーカップと「しろうさぎさん」の画像。画像の投稿時間は、昨日の午前10時ちょうど。
「あ、このうさぎちゃん、月野さんの! ですよね、小竹さん?」
 カスタマーサクセス担当の平原が、ナオに呼びかける。
「ゆめぴりかでしたっけ!」
「『ゆとぴりあ』」
 訂正しながらナオは、そういえば昨日の朝会に、くららはいただろうか、と記憶を辿る。毎朝9時半から始まる全社オンライン朝会は、外部商談のある社員を除く全員が参加し、前日の活動報告と一日のタスクを共有することになっている。
 そうだ、あの日、なおは「耳だけ参加」だったはず。
 ウェブカメラもマイクもオフにしており、本来くららの顔が映るところには「しろうさぎさん」のイラストがあった。
『移動中のため耳だけ参加です、ごめんなさーい』
 と、くららからのチャットがついていた。その後、コワーキングスペースの写真がフリートークに投稿されたので、「あ、コワーキングへ移動中だったんだな」とナオは腑に落ちたのだった。
 神谷からのチャットは続く。
『この投稿が本当なら、月野さんは夫の遺体を捨てに行く途中でここへ寄ってコーヒー飲んでます』
「あら、大仕事の前に一息ついたのかしら」
 おっとりと新田が言い、
「ふざけないでください、人が死んでるんすよ!」
 と高橋が返すと、全員が「お前が言うか」と高橋の画面を凝視したけれど、オンラインでは視線は伝わらない。代わりに佐々木が、「お前が言うか!」と一喝した。
「たしかにこれ、月野さんのネイルですよ。ね、小竹さん!」
 平原の言葉に、ナオは頷く。「しろうさぎさん」をイメージした白地に爪の先だけゴールドのラメが散ったくららのジェルネイルを画面越しに見て、「フルリモートだからって気を抜かずに私たちもちゃんとおしゃれしなきゃだねー!」と平原とともに頭を抱えたことを思い出す。とりあえず上は会社のロゴ入りTシャツかパーカを頭からかぶって下は家着、という社員も多いなか、くららはいつもシフォンのブラウスやシャツといったエレガントな格好だった。なおなんて、いつの間にかピアスの穴が塞がってしまったというのに。
「こっちの手は、『くろうさぎさん』なんだよ」
 と、くららはまるで大切な秘密を打ち明けるように、黒く塗られた反対の爪をウェブカメラに近づけてなおに見せてくれたこともあった。
「だが、チャットって予約投稿できたよな。写真は別の時間に撮られたものかもしれないぞ」
 佐々木が腕を組み替えながら言う。
「でも、壁の時計が映り込んでるっす。投稿時間と同じ10時っす!」
 高橋が身を乗り出した。高橋がなんだか楽しそうな様子なのが気に食わないけど、「やっぱりくららが逮捕されたのは間違いだ」というナオの希望は確信に変わり始めた。
「しかし、いつの10時かわかったもんじゃない。それに、『市内』のコワーキングスペースといっても、どこの」
「名古屋市内のここですねぇ。うん、たしかに昨日オープンしたばっかりのところみたい」
 佐々木の言葉を遮って発言したのは、マーケティング担当の片瀬だった。ツーブロックのサイドにウェーブをあてた金髪が揺れる。
「どうしてわかった」
「画像検索に決まってるでしょ。便利な時代になりましたよねぇ」 
 片瀬が件のコワーキングスペースのリンクをチャットに貼ると、何人かから、おお、と声があがった。しかし、
「この場で謎解きをしたいわけではないので、気になったことがあれば小竹さんへ個別でメッセージください。以上で」
 見かねた崎本が畳み掛ける。「ほらほら、業務に戻って」
 ナオがもやもやした気持ちでオンライン会議の退出ボタンを押そうとした、その時だった。
「え、誰!?」
 突然、高橋が叫んだ。
「テレビつけてください。4チャンネル!」
「どうしましょう。富山には4チャンネルがないわ」
 新田が首を傾げるのと、
「なぜテレビを観ているんだ」
 と佐々木が眉根を寄せるのと、東京在住の崎本が、
「まじか」
 と呟くのとが同時だった。
『これ見てください』
 神谷のチャットに従い、全員がチャット欄に貼られたリンクをクリックし、現れたニュース記事を見た。
 そして全員が、
「誰!?」
 と叫んだ。
 「愛知・繊維メーカー社長死体遺棄容疑で公開手配」の見出し下の写真、「月野くらら容疑者(31)」として表示されていたのは、まったく知らない女の顔だったからだ。

 <recording in progress >

 人事担当の丸山が、転職サイトのスクリーンショットを画面共有すると、ナオにも馴染みのあるくららの横顔がパソコン画面に映し出された。
「これが、採用面接時に月野さんが転職サイトのアイコンにしていた写真です。役員共有用に保存していました」
 耳の上で編み込まれた薄茶色の髪に、色白の頬。何かの集合写真を切り取ったのか、横顔の上に少しぼけているので、くららのあの印象的な富士額はこの写真からはうかがえない。履歴書の写真貼付は任意なので、証明写真のない履歴書の場合、応募者の見た目の雰囲気は転職サイトのアイコン写真からうかがい知るしかないのだと丸山は言った。ナオの会社の採用面談は、全てのステップがオンライン上で行われ、応募者と人事担当者のやり取りは転職サイト上のダイレクトメッセージで行われる。
「皆さん大体、SNSと同じような普段のお写真をアイコンにされていますが、佐々木さんは証明写真、神谷さんはAIイラスト、高橋さんはご実家の猫ちゃんのお写真でしたね」
 ナオは、画面に映るアイコン写真とニュース記事の顔写真とを見比べるが、比べるまでもなく別人だった。骨格の形からして違う。公開手配された「月野くらら容疑者」は、顎の下で切り揃えた黒髪ボブで、日に灼けた頬にはそばかすが散っていた。切れ長の目元はくららと少し似ていなくもないような気もするけれど、やっぱりこれは別人。ナオは「お手上げポーズ」で伸びをした。「昔の写真なのかしら?」なんて新田は言っていたけれど、どこをどうやっても、特殊メイクでも施さなければ、ナオの知るくららへは変わりようがなかった。
「同姓同名の人違いってことはないんですよね?」
 ナオは念を押すが、
「ええ。社員登録されている住所は愛知県名古屋市だし、配偶者のお名前も……その、あの方ですね」
 と丸山は言い淀んだ。しかし、「ただ、一つ気になるのが」と付け足した。
「本人確認書類です。月野さんがご提出されたのは、顔写真がついたものではなくて」
「あれ、顔写真ってなくていいんですか?」
「はい、住民票か通知カード、それに顔写真なしの身分証明書が2点あればいいんです。例えば、公共料金の領収書や源泉徴収票などですね」
 自分は運転免許証を提出した気がする、とナオは半年前のことを思い出す。
「そもそも、実物の月野さんと会ったことのある社員って、うちにはいませんけどね」
 丸山が笑う。
「それを言ったら、私と丸山さんも」
「そうですね」
 長野県在住の丸山は、自宅のWi-Fiの回線が遅くしょっちゅう途切れがちになることを、日本アルプスのせいにしていた。
「書類上は、どこもおかしなところはないのになぁ……」
 呟く丸山の後ろに、ピースサインをする男の子が映り込んでいた。背景設定のおかげで風景が映ることはないけれど、画角内に人が検知されると、本人以外が映り込むことがある。「インフルエンザで、保育所がお休みになっちゃって」と丸山は困ったように笑い、男の子に一言二言、語りかけていた。
「月野さんは、経営会議に乱入してきちゃううちの子にも優しくて、よく手を振ってくれたな」
 それから丸山はカメラへ向き直って言った。
「私たちが知ってる月野さんって、一体どなただったんでしょうね?」

 <recording in progress >

「えっ、月野さんって、お子さんいましたよね。小竹さん!」
 カスタマーサクセス担当の平原の声が裏返る。ナオは首を振った。
「嘘、ミーティングの時、一度だけ女の子が映り込んでた時があって。小学生くらいかな。月野さんは気づいてなかったみたいで画面を睨んでるもんだから、あたし、あっち向いてホイしてあげましたもん!」
 平原が腕を振ると、手首に巻かれたストーンブレスレットがじゃらじゃらと音をたてた。しかしカスタマーサクセスのくせにクライアントの顔を覚えられず取り違えたこともある平原の言うことを、ナオはいまいち信用できなかった。よく映り込んでじゃんけんを仕掛けてくる女の子といえば、片瀬さんの娘さんじゃないだろうか。
 「そんなことより要件を」、とナオが言おうとしたところで、
「そんなことより要件なんですけどね!」
 と平原が身を乗り出し、勢いよく右手を挙げた。
「これ! あたし、今、どっちの手挙げてます!?」
 ストーンブレスレットのじゃらじゃらいう音を聞きながら、「右」とナオは言った。
「ですよね! それじゃこれ、どうなります?」
 パッと画面が反転し、平原は左手を挙げていた。なかなか「要件」が来ない。ナオは短く答えた。
「左。でもこれ、ミラーリングしましたよね?」
 何のために使うのかナオはよく知らないけれど、オンライン会議ツールの画面設定の中に「ミラーリング」という項目があり、チェックをつけるとまるで鏡のように左右が反転する。
「その通り!」
 平原は答え、
「でも、ミラーリングすると、見て! こんな風に、背景の文字も反転しちゃうわけ!」
 平原は画面右上で鏡文字になった自分の役職と指名を指さす。
「そこで、問題。月野さんの名前が鏡文字だったことって、これまでにあった?」
「ないと思います」
「でしょう! それなのに、一昨日のフリートークのこの写真は、どうして左右が反対なんでしょうか!?」
 まるでクイズを出すように言う平原。ナオは、さっき神谷にメンションされたフリートークの写真を見る。くららのピースサインに、名古屋市内の新しいコワーキングスペース。
「別に、反対じゃなくないですか? 高橋さんが見つけた時計の文字盤も、鏡文字にはなっていないし……」
「よく見て、手よ!」
 平原が食い気味に言う。
「写真に映っているのは、月野さんの右手。でも、思い出して! 月野さんがこの白いネイルをしていたのは、左手だったじゃない!」
 鼻息荒く平原は喋るが、ナオはぽかんとしてしまう。くららが左右の爪に白と黒のネイルを施していたことはもちろん覚えているけれど、
「どっちがどっちだったかは、さすがに覚えていなくて。平原さんの思い違いではないですか?」
「いーえ、あたしはよーく覚えてますとも! あのゆめぴりかのうさぎちゃんの指輪、いつも左手の中指にしてたでしょ。白い方ね。あたし、言ったことあるのよ。風水的に、気は左手から右手へ流れていくから、良い気を留めておくためにも、指輪は右手の中指にしなきゃダメよって。ほら、反対の黒い爪の方にね」
 うさぎ型のモチーフの真ん中にひとつ白いパールののった指輪は「しろうさぎさん」のイメージリングだから、風水などではなくて白いネイルの方にしないといけないんだ、と言っても平原には伝わりそうもなかったので、
「『ゆとぴりあ』ですって」
 と一言ナオは呟いた。指の付け根のぎりぎりのところで画像が切れており、指輪をしているのかしていないのかはわからない。
 でも、とナオは思う。でもたしかに、平原の言うことが本当だとしたら、このピースサインの主は、くららではないことになる。わざわざ右手と左手のジェルネイルを塗り替える必要もないのだし。ナオの頭の中に、さっき見た黒髪ボブの知らない女の顔が浮かぶ。
「小竹さんも、玄関はこまめに掃除しなきゃダメよ」
 そう平原は言い残し、顧客対応があるからとミーティングを退出した。

 <recording in progress >

 今日は絶対に何かあると思ったんだ、と佐々木は重々しく言った。
「今朝起きたら、寝室の鏡が割れてててな。こう、バリバリっと」
「寝室に鏡置くの、良くないらしいですよ」
「そうなのか。なぜだ?」
「知らない。さっき平原さんが言ってました」
 これ見よがしに腕組みする佐々木に、ナオは言う。
「月野さんとの採用面談でのやり取りが気になったんですよね?」
 ナオの会社の採用フローには、経営陣と人事担当の面談の他に、社員交流会といって、面接者が社員と会話する機会がある。実際に現場の社員と話すことで、細かい業務の疑問を解消したり、職場のカルチャーを感じてもらうことで、入社後のミスマッチを防ぐことが目的だ。
「気になってるというか、そもそも変だと思わないか? 夫は社長だぞ。玉の輿じゃないか。わざわざこんな小さなスタートアップであくせく働かずに、社長夫人としてどーんと構えていればいいものを。そうでなくとも、家族経営で夫の会社の事務をちょっと手伝うくらいで充分じゃないのか」
 あー、とナオは天井を仰いだ。あー、地雷だ。人によっては、激昂しかねない尊厳の問題。どことなく亭主関白の気がある佐々木が結婚できないとぼやく理由が、ナオにはよくわかった。
「佐々木さんそれ、面接で言いいました?」
「あぁ、言った」
「二度と言わないでくださいね。片瀬さんあたりが聞いたらキレますよ」
「片瀬はバツイチになりたてだからな」
「そういうわけではないですが、それも絶対言わないでください」
「まぁいい。で、俺がそうを言ったら月野は、経済的に自立したいんです、と答えたんだ。このまま何もかも夫に依存してばかりで一蓮托生だと、いざという時に私は何も自分で選択することができなくなってしまうから、と」
 さっき人事担当の丸山から聞いた話をナオは思い出す。内定を出してから承諾までが、月野は他の社員よりかなり長かったのだという。内定を辞退するのではないかと心配になった丸山が何度か連絡をとるたびに、「今フリーで抱えている案件の調整で」と返していたくららだったが、晴れて契約を交わすタイミングで「実は家族の説得に時間がかかっちゃって」と苦笑いしながら漏らしたそうだ。
 ナオは、デスクに転がった「くろうさぎさん」をしゃんと立たせた。
「働きたい女というのは、そういうものなのか?」
「働きたいか働きたくないかとか、男か女かとか関係なく、誰でも経済的に自立していた方がいいと思いますよ。男は女を支えるもの、って考え方は時代錯誤ですし、今時マッチョはモテないですし」
 どさくさに紛れて本音をこぼしてから、くららはちゃんと「いざという時」に「自分で選択」できたのかもしれないな、とナオは思う。

 <recording in progress >

「これは友だちの話なんだけどって前置きする時は、たいてい言いにくい自分の話だったりするじゃないですかぁ」
 サイドにかかる金髪をかきあげながら、片瀬は言った。ナオは頷く。
「月野さんから聞いた『友だちの話』が気になっててぇ」
 片瀬の話によると、こうだ。離婚したばかりの頃、くららとのミーティングの終わりしなに雑談で、「子どもを別れた父親に会わせたくない」とこぼしたことがあった。するとくららは、こう前置きして話し始めたそうだ。
「『これは友だちの話なんですけど』って」
 「友だち」は、夫のDVが原因で子どもとともにシェルターへ一時避難したことがあるのだという。絶対に居場所を知られたくない一心で身を隠し、およそ社会とのつながりと言えるものはすべて断ち、保護命令申し立てをしながら代理人を立てての離婚裁判となったそうだ。
「もちろん、父親と子どもとの関係にもよりますけど、月野さんの友だちは、『この子を愛してくれる人が少ないことがすごく悲しかった』らしいんですよぉ」
 それからくららは慌てたように、『友だちの話なんですけどね』と付け加えたそうだ。片瀬は話す。
「それを聞いたら、うちは価値観の違いというか、少なくとも身の危険があるような状態ではないから、うちの子を愛してくれる人は多い方がいいのかなって思えるようになって。まぁ、しぶしぶですけどね。面会の間、わたしもちょっと息抜きできますしぃ」
 そういえばくららが、「しろうさぎさんの赤ちゃん」を見せてくれたことがあった。「しろうさぎさん」の半分ほどのミニサイズだけど、お洋服のバリエーションが豊富で、「お子様ランチについてたプラスチックの指輪が、ほら! 赤ちゃんのカチューシャにぴったりなんだよ」とウェブカメラに妖精のコスチュームを着せた「しろうさぎさんの赤ちゃん」を寄せた。その時ナオは、お子様ランチを注文するくららの姿を思い浮かべ、そこまでするかとおかしくなったのだけれど。「しろうさぎさん」と赤ちゃんを並べるくららに、「お父さんがいたら完璧なのにね」とナオが何気なく言うと、くららはしずかにこう言ったのだった。
「赤ちゃんが幸せだったら、そばにいるのは誰だっていいの」
 それから「くろうさぎさん」を傍に立たせ、
「『わたしたち、ふたりでひとりなんだぴょん』!」
 とおどけてみせた——。
 「あぁそれから」片瀬はふっと息を漏らした。
「さっき、まとめサイトで見ましたけど、月野さんの旦那さん経済DVだったみたいですねぇ」
「経済DV?」
「えぇ。生活費を渡さなかったり、稼ぎの差を持ち出して相手を奴隷のように扱ったり、人格を否定したり。真意のほどはわからないけど、もし本当なら、そんなやつ死んで当然って思いません?」
 片瀬は早口になり、あぁ、もう死んでるかぁ、と鼻を鳴らした。
「お互いの旦那の話をしたこともあったけど、月野さん、そんなことちっとも言わないんだもんなぁ。ていうか、私の元旦那の愚痴を聞いてもらうばっかりでしたけどぉ」
 なおは瞬きした。くららとは、あまり家族の話はしなかった。なおも家族についてはそこまで話したくもなかったので、好都合ではあったけれど。片瀬は伏目がちににやりとして言った。
「旦那って臭いよね、とか」
「え?」
「わかる、寝室なんてやばいですよねって月野さんも」
 片瀬はこらえきれずにくつくつと思い出し笑いをはじめる。
 ナオもつられて笑い出し、二人で散々笑ってから、あーおかし、と涙をぬぐいながら片瀬が言った。
「月野さんなんて、『いつか家中ハイターと洗剤で強力洗浄したいかも。夫ごと』って! で、それ死ぬじゃんって」
 そう言いかけて、口をつぐむ。ナオもはっとして、片瀬と顔を見合わせた。「月野くらら」の夫の死因は、硫化水素中毒。
 たっぷりと見つめあってから、片瀬は髪をかきあげぎこちなく言った。
「オンラインっていいですよね。その、無臭だしぃ」

 <recording in progress >

 ナオがミーティングに参加すると、崎本はまだ入室していなかった。
 前の予定が伸びているのかとなおが崎本のカレンダーを確認すると、前の時間帯は三つのミーティングが被っていた。経営企画室担当として、経営陣と社員の板挟みになっている上、マーケティングとカスタマーサクセスのマネージャーも兼務している崎本の口癖は、「あぁ俺がもう一人、いやあと二人ほしい」で、実際よく分身していた。フルリモートであれば、分身は可能。パソコンから一つのミーティングにつなぎ、スマートフォンからもう一つのミーティングにつなぎ、タブレットもあればさらに別の接続もできる。あらゆるデザイン業務で多忙なくららも、一方でミーティングに参加しながら、他方で別の社員とチャットで会話し、さらに手元のソフトでデザインの修正をするという離れ業を度々こなしていたようだ。
 約束の時間を5分ほど過ぎてから、「お待たせしました」もなくやってきた崎本は、早口でこう言った。
「単刀直入に言うと、僕らが知ってる月野さんは、『月野くらら』じゃなかった」
「えっ、じゃあ」
 人違いだったのか、と言いかけるナオを制し、崎本は続ける。
「社員としての登録情報は月野くららで間違いないんですが、僕たちと実際に会話していた人の方が、『月野くらら』ではなかったってことですね。早い話が、身分詐称」
 ナオは混乱してきた。つまり、うちの会社が契約をしたのは夫を殺した月野くららだけど、働いていたのは別人だったってこと?
「うちにあるのはの転職サイトのぼけた顔写真だけ。その他は、名前も年齢も住所もわからず、こっちはお手上げだよ」
 崎本はいらいらと頭を掻く。その頭が西日を浴びて輝いていることにふと気づき、東京は晴れているんだ、とナオは思う。大阪もいつの間にか雨は上がっていたけれど、窓の外は薄曇り。きっと明日は晴れる。
「あれ」
 ナオは声をあげた。「どうしました?」と言う崎本の横顔にはやっぱり西日がさしていて、
「あれ」
 ともう一度、ナオは言った。
 東京は、大阪よりも東にあるから、日没が早い。名古屋も、東にあるからナオの住む大阪天満宮よりも日の入りは早いはず。でもあの日、一昨日の夕方のオンラインミーティングで、くららは西日を浴びてはいなかったか。くららを待つ間、ナオの方はといえば窓の外が暗くなってきたことに気づき、門灯をつけたのに。
 あの時くららは、いや、くららではない誰かは、大阪よりも西の地域にいたのではないだろうか? いや、あの時だけじゃない。もしかすると、もっとずっと前から。
 パソコン一つあれば、どこでだって仕事ができる。究極、パソコンがなくたって、IDとPASSを共有してさえいれば、誰だって当人になりすますことができる。ナオの知っているくららと、黒髪ボブの月野くらら容疑者、同い年にしては豊富すぎる経験、人間離れした業務スピード、質の高い納品物、左右反対のネイル、福岡の崖下——。デスクに並ぶ「しろうさぎさん」と「くろうさぎさん」を見つめるナオの頭の中で、すべての凹凸が今ゆっくりと、あるべきところへおさまりつつあった。「しろうさぎさん」と「くろうさぎ」さんは、とっても仲良し。おっちょこちょいで足りないところばっかりだけど、二匹で力を合わせれば、どんなミラクルだって起こせるよ。
 『わたしたち、ふたりでひとりなんだぴょん』!

 ナオは、しずかに長く息を吐いた。
「いえ、なんでもないです」
 それから、ミーティングを退出した。

 <recording stopped >

 公開手配までされたのだから、事件はすぐに解決するのかと思いきや案外そうでもないもので、桜の開花や、海外で起きた地震に季節外れの集中豪雨、芸能人の不倫騒動などが続くと、「月野くらら」は徐々に人々の記憶から薄れていった。人は、簡単に消える。一度消えてしまった誰かを探すのは、ことのほか難しいのかもしれない。
 厳密には身分詐称というより本人確認が不十分だった会社の体制に問題があり、当該人物の事件の関与についても調べようがなく、もちろん証拠もないとなると、くららを騙った人物についてそれ以上のことはたいしてわからかった。明らかになったのは、履歴書に記されていた月野くららの職務経歴は三年前までのもので、直近三年間の経歴ついてはクラウドソーシングサービス経由のフリーの仕事で、いずれも請負人はハンドルネーム「しろうさぎさん」。評価は高いが本人確認書類未提出のクラウドワーカーであることだけだった。
 その後、ナオの会社で変わったことといえば、採用時の顔写真つき身分証明書の提出が必須となったことと、半期に一度の全社リアルキックオフが行われるようになったくらい。
「リアルでは初めまして」
「リアルまして」
 と笑い合った丸山は意外と背が高く、崎本は佐々木よりもマッチョで、片瀬は腰の上あたりにタトゥーを入れていた。
 それから急遽デザイナーを採用したけれど、一人ではこれまでと同量の業務が回らずデザイナーが音を上げたので新たにもう一人採用し、それが済んでしまえば事件前と何も変わらない日々が戻ってきたように見えた。 
 佐々木の二の腕はますますたくましくなり、平原のブレスレットは増え、丸山の子どもが幼稚園に、片瀬の子どもが小学校へ上がり、高橋は、相変わらず事件の考察をナオに披露してきた。
「今回の考察は完璧なんで聞いてくださいよ。もし二人いたら、完璧なアリバイになるんですって。AとA'がいるとするでしょ。Aが名古屋で夫を殺す。すると自分の車で福岡から名古屋へやって来たA'が、お次はAの車に遺体を積んで福岡へトンボ帰り。つまり、車の交換こっすね。その間、アリバイ工作としてAが名古屋のコワーキングスペースの写真を投稿するんすけど、その頃A'は福岡の崖下へ遺体を落っことし、車を乗り捨ててる。お互い移動しながら業務して、ずっと自宅にいましたよってていでしれっと退勤ボタンを押すんすよ。で、捜査が始まった頃にはもう、Aは遠くへ逃げた後。ほら、完璧でしょ? 二人はグルだったんす。完璧なバディ物っす」
 完璧を連呼する高橋に、ナオは、首を傾げる。
「でもさ、普通夫を殺したらすぐ逃げない?」
「普通、夫は殺さないっすよ」
「うん、まぁね。わたしが言いたいのは、夫を殺したらアリバイ工作にコワーキングスペースなんて寄らずに高跳びした方が犯人にとっては安全なんじゃないかと思うんだけど。崎本さんが問い合わせたら、その日コワーキングを18時半以前に退出した利用者はいなかったらしいでしょ。いつ捜査の手が伸びるかわからない状況で、定時までそこで仕事なんてするかな?」
 む、と高橋は頬杖をついて考え込み、「じゃあ、三人っす」と言った。
「三人いたら、完璧になるっす! Aは殺して逃げる、A'は捨てて逃げる、そしてA''が安全な場所でアリバイ工作を」
「くららが三人? もう、勘弁してよ」
 ナオは天井を仰いだ。
「そもそも、仕事でもそうだけどさ、大事なのは『どうやるのか』じゃなくて『なぜやるのか』じゃない? どうしてくららがそこまで殺人に協力的なのよ。まさか他人の夫を殺害するためだけに半年も前からうちに入社したってわけでもないだろうしさ」
 言うまでもなく、くららの働きぶりは素晴らしかった。プロダクトのリリースは捗り、プレスリリースだって立て続けに出すことができたし、最後の広告出稿だって間に合った。くららは、あらゆる社員と会話をし、相談に乗り、時に冗談を飛ばし、ともに笑い、苦しみ、そして真摯に仕事をしていた。誰かを謀ろうとする人間の態度では、決してなかった。すると高橋は決まって口を尖らせ、
「そんなこと、月野さんに聞いてください」
 とそっぽを向くのだった。
 直接会い、面と向かって話すことの大切さが説かれるたび、ナオは途方に暮れてしまう。相手の素性を詳らかに知る必要がどこにあるのだろう、と。
 相手が誰であるかよりも、何をするかなんじゃないだろうか。
 見える部分が少ない分、オンラインではそれがいっそう顕著になる。少なくともナオにとっては、そのことが心地良かった。親子関係や進学や就職や結婚、ひとつでも上手にこなせないと失敗の烙印を押され、それが一生つきまとう現実よりも、クリック一つでアカウントを切り替えればたちまち自分ではない誰かに、誰にだってなれるオンラインは、ナオにとってかけがえのない居場所に思えた。それは、確かなものなんて何ひとつない社会のバグで、わずかに許された自由だった。
(でも一つだけ、確かなことがあるとしたら)
 手の中の「くろうさぎさん」をぎゅっと握り、ナオは百貨店の入り口で整理券を受け取った。
(私は、あなたの「くろうさぎさん」ではなかった)
 整理券をポケットにしまい、足早にエスカレーターをのぼってゆく。店からエレベーターホールにまではみ出す長蛇の列を見たナオは、どうせ有休をとるなら前乗りすればよかった、と後悔する。
 今日は、ゆとぴりあのコラボグッズ発売日。事前予約抽選に外れたナオは、当日店舗で並んで待つことにしたのだった。これまでの経験上、コラボグッズを手に入れようとしたら数秒でSOLD OUTとなってしまうオンライン販売は望み薄だし、再販もない。事前抽選と当日販売の機会を逃すと、フリマアプリで暗躍する転売ヤーから高値で買うしかなくなってしまうのだ。そんな悪質な行為に加担しては、ゆとぴりあに顔向けできない、と思うナオは、わざわざ有休をとり、はるばる夜行バスで東京までやって来たというわけだ。列は長いけれど、整理券はゲットできた。気長に待とう、とナオは最後尾に立つ。すぐに整理券を握りしめた小学生くらいの女の子がやってきて、ナオの後ろに並んだ。
「わ、かわいい!」
 の声に振り向くと、女の子はナオの鞄についたゆとぴりあおでかけポーチをのぞいていた。お気に入りのマスコットを鞄などにつけて持ち運べる透明のチェーン付きポーチには、ファッション誌とコラボした二十周年限定コスチュームに身を包んだナオの「くろうさぎさん」がおさまっている。
「このお洋服、限定品だよね」
 という会話から始まり、ナオと女の子はお互いのゆとぴりあを見せ合った。普段は接点のない地域や年代の相手とも自然と話が合うのは、ゆとぴりあの魅力だ。おなじ「くろうさぎさん」派だとわかると、さらに会話も弾んだ。
「今日、お父さんやお母さんは?」
「お母さんはお仕事。お父さんはいない。うちはこの辺だし、一人で来たんだ。もう11歳だもん。お姉さんは?」
「私は大阪から夜行バスで」
「夜行バス、この前お母さんも乗ってた! あれ、全然眠れないらしいね」
 それから女の子は、親子そろってゆとぴりあファンなのだとにっこりした。
「お母さんが来れないかわりに、この子たちを連れて来たんだ」
 女の子がそっとほどいた手の中から現れたのは、「しろうさぎさん」と「しろうさぎの赤ちゃん」。
「すごい! このお洋服、はじめて見た」
 細かいレースをあしらったカントリー風のワンピースになおが目を見張ると、女の子は少し得意げに言った。
「手作りだよ。お母さん、デザイナーなんだ。ほら、爪もやってくれた」
 女の子が並べた爪は、左右で黒と白とに綺麗に塗り分けられていた。爪の先には、ゴールドのラメが光る。
 ナオははっとして「しろうさぎの赤ちゃん」に目をやり、カチューシャがプラスチックのおもちゃの指輪であることに気づくと、おそるおそる尋ねた。
「あなたのお母さんってその、ファッションデザイナー? それとも画像やWebサイトなんかをデザインしてるの?」
 女の子は怪訝な顔で、
「グラフィック専門だよ。あたしも、お母さんみたいなグラフィックデザイナーになりたくて修行中。 SNSのサムネイル画像くらいなら、どんなのでも作れるよ 」
 と答えた。それから、「本当は、WebやUI? なんかもマルチにやれた方がジュヨウがあるんだけどね」と付け加えてみせる。女の子がタブレットを起動して見せてくれた「あたしの作品」は、小学生とは思えない出来栄えで、デジタルネイティブってこういうことなんだ、とナオは感心してしまう。これくらいの腕前なら、うちの会社でもOGPの制作依頼なら応えることができるな、と思う。
 ねぇ、お母さんは誰かとペアで仕事をしていたことはない? それか、「しろうさぎさん」というハンドルネームでデザインをしていたことは? ちょっと前まで、福岡に住んでいなかった? 名古屋へお出かけしたことはある? 困った誰かを助けてあげたことは——?
 ナオはあわてて頭を振った。都合よく考えすぎだ。黒白ネイルはゆとぴりあファンの間で人気だし、プラスチックリングをカチューシャにするのもSNSで流行っていた。気のせいだ。女の子の編み込まれた髪や色白の富士額はどことなくくららを思わせることも。
 尽きない疑問のかわりに、ナオは一言こう言った。
「お母さんと仲良しなんだね」
 女の子は大きく頷いた。
「うん。だって『わたしたち、ふたりでひとりなんだぴょん!』」
 満面の笑みでピースサインをした女の子の中指に、「くろうさぎさん」の指輪がぴかりと光る。年齢の割に、大きな手だった。ふと、この手をどこかで見たことがあるような気がしてナオは手を伸ばしかけるが、記憶は指と指の間をすり抜け、ナオはそれをつかみ損ねる。伸ばした手のやりどころがわからないまま、
「全然進まないね。ねぇお姉さん、あっち向いてホイしない?」
 女の子に促され、
「いいよ」
 ナオはそっと手のひらを結んだ。

(了)

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