雑文「GENSHIN EVENT and EVANGLION EFFECT(近況報告2023.7.14)」

 原神の夏イベントをクリア。不機嫌な大人たちを苦手とする子どもの心情や、その子どものために大人たちが怒鳴りあいではない、正しいコミュニケーションを取りもどす様子など、我々が日常で忘れがちな、ハッとするような気づきと学びを、原神はいつも与えてくれます。倫理や道徳にも似た「大人として正しいふるまい」への嫌味ではない教化は、文字通り世界中の若者がプレイする作品として、かなり意識的に行われている気がします。ファイナルファンタジー16を通じて、最新のJRPGが奇しくも体現してしまっている本邦の現状を突きつけられ、かなり絶望的な気分になっていたところだったので、この夏イベントは干天の慈雨のように心へしみました。タイムラインに流れてきた「みんなアニメが好きなのではなく、キャラクターが好きなのだ」という指摘を借りてJRPGとの比較をするなら、「みんな良い物語が好きなのではなく、カッコいい台詞が好きなのだ」「みんな双方向の対話が好きなのではなく、一方的な宣言が好きなのだ」とでもなるでしょうか。

 最近、ヤングケアラーなる言葉を頻繁に耳にするようになりましたが、LGBTのときにも感じたことながら、無限段階のグラデーションが存在する場所へ、ガチッと枷をはめて違いを有限化しようとする仕掛けは、いったい「だれが、何の」意図を持って行っているのか、さっぱりわかりません。以前、不仲だった父親にかけられた言葉によって、ある官僚が「ゆとり教育」を猛烈に推進した話をお伝えしましたが、ひとりの家庭の病裡がシステムとして再演されるのを、我々はまた見せられようとしているのでしょうか。この単語によって、「おまえは家族に虐待されていたのだ」と公から宣言され、不必要な「目覚め」を得てしまう個体ーー私は自戒をこめてこれを「エヴァンゲリオン効果」と呼んでいますーーを作りだし、本来的には無用の苦しみと混乱を生じさせる効果の方が大きいような気がしてなりません。

 別の視点から鳥瞰すれば、「西洋文明に対する無批判の追随が、彼我の心性の差異を越えはじめ、きしみをあげている」とも指摘できるでしょう。仏国では、自国に存在しなかった概念を表す外国語に対して、新たに造語を作成せねばならない法律が存在すると聞いたことがありますが、周回遅れながら骨身のレベルでその重要性がわかってきたように思います。近年の洋画(古い表現)につけられる邦題が原題のカタカナ読みばかりになっているーーファントム・メナスとウェイ・オブ・ウォーターが最悪の二巨頭ーーことにも表れているように、我々の文化と心性に許容しやすい「自国語による翻案」がいつのまにか廃れ、西洋由来のドぎつい概念が直に日常へ挿入されるようになってしまったことが、様々な問題を引き起こしているように思うのです。

 きっと陰謀論のようにひびくでしょうが、LGBTに続くヤングケアラーなる単語は、「田舎の次男坊以下によって形成される核家族」ーー詳しくは「七夕の国・友の会」に寄稿した文章を参照のことーーをさらに小さな単位へと細分化して、旧来の家族なる枠組みを解体しようとする試みにも思えてなりません。こんなふうに感じるのも、おそらく原神をプレイしてしまったからで、そこに描かれる家族像や人間像のほうが、ずっと正しくまっとうなもののように映ります。この概念の震源地はテレビであり、かつてすべての情報の中心にあったそれは、いよいよ「貧者のメディア」へとステージを移した感があります。いずこからも独立した最先端のようにふるまうSNSでさえ、遠巻きに「貧者のメディア」から受信した内容を取りあつかっていて、その議論の多くは核家族の構成員やそこから派生した者たちが、「己の生きる百年」の上下を批判しあっているにすぎません。そんな貧しい者たちの目が届く場所においては、けっして言語化されないがゆえに、本当の豊かさーー金銭だけの意味ではないーーは、彼らの人生の埒外で原神的な価値観の下に、粛々と受け継がれていっているのだろうと想像するのです。

 最後に、原神の夏イベントへと話を戻して終わることにしましょう。今回の物語のエンディングで、洞天の主がみずからの住む小さな世界を「ここが私の夢の終着点」と表現するのですが、「大きな夢に耐えるための小さな夢をかなえて、いずれ離れるべき魂のゆりかご」という考え方は、テキストサイト時代に抱いていたインターネットへのイメージと完全に一致しています。あれから長い時間を経たいま、ここは私にとって「夢の終着点」となったのかもしれないーーそう、思いました。

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