雑文「今なら、ぼくはおそらく死んでもいい」

 半世紀に5年前後足りない人々のお気持ち表明がここ数日、テトリスみたいに次々とタイムラインを下ってくるので、イヤイヤ目を通す。まず最初に感じたことを言葉にすれば、「オイオイ、パンピーは置くとして、オマエらは『医師』やら『京大』やら、現世のプレフィックスがついたネームドじゃねえか。こちとら20年ずっと、小部屋のアンアイデンティファイドなんだが? 近ごろのネットではプレフィックスのないテキストは読まれないんだが?」ってところでしょうか。「存在が知られて、テキストに金銭が発生する」のが小鳥猊下の目指す最終ゴールなので、それを達成した方々がショボくれた弱音みたいなのを吐いてるの、正直いらんなーって感じです。しかしながら、12歳の少女である我が実存に響くところがなかったわけでもないので、この件について少し感想を残したいと思います。

 「人生は重荷を背負いて遠き道を行くが如し」を家訓とする小生(おっと、身バレはカンベンな!)が20年以上を律して、同じ生活と節制を繰り返してきたのは、ひとえに核家族時代の家長が抱く恐怖であるところの「オレが倒れたら、一家全滅」に支配され続けてきたからに他なりません。これはつまり、田舎の大家族の次男坊以下が与えられた「家を出て、都会で独立」という人生観、言わば「子消し・口べらしの呪い」を先代から受け継いでしまっているからに他ならず、やはり地元実家住みの、「ママとは友だち」マルチプル・インカム高卒若年多産ヤンキーこそが時代に対する最適解であったなと、己の無用の苦しみをふりかえって今ごろ痛感しておる次第です。近年では「オレが倒れても、まあ大丈夫」という心境へと次第に変化しつつあり、日常生活にせよ、仕事での決断にせよ、かなり楽にできるようになってきた実感があります。「失敗・イコール・死」のくびきからマインドが解放されて、肩の力が抜けてきたからかもしれません。

 「エンダーのゲーム」の続編である「死者の代弁者」の最後で主人公が語る、「今なら、ぼくはおそらく死んでもいい。ぼくの生涯の仕事はすべてやり終えている」という告白へ、隣接した状態になってきているのでしょう。「年をとるごとに、なんだか楽になってくなー、いいのかなー」というのが最近の感じなので、ネームドたちが吐露する苦悩も、文学として読めば「かっけえ!」なのかもしれませんが、生活として読めば「んー?」と首をかしげざるをえないわけです。少女のような「ふわふわタイム」を過ごしてきた末代か資産家か高等遊民が、「己のアイデンティティに比べれば、取るに足らぬもの」と放置してきた人生の宿題に追いつかれはじめているだけじゃないの、とか意地悪く思っちゃう(最後まで高楊枝で「取るに足らぬもの」とうそぶいてくださいよ、もう!)。その「宿題をやっていない8月31日の子ども」に対して、7月中に宿題を終えることができそうな私は、本当に「おそらく死んでもいい」瞬間が訪れたときの解放感を心待ちにしながら、これからも日々を振り子のようにコチコチ生きてゆきます。

 まあ、この語りさえバリバリの生存者バイアスであると同時に「虚構日記」の一環なので、真に受けんほうがええよ。

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