雑文「1999年のテキストサイト:関西編(2020.1.5)」

質問:小鳥猊下の1ファンとして心よりメッセージさせていただきます。
 猊下のことを地域格差の物語など無礼なことを申し上げたのは、個人的なテキストサイトと重なる自分の歴史がありました。
 長くなるかもしれませが、取り止めのない自分語りをお許しください。
 1990年代後半より、テキストサイトの更新チェックは一日で一番楽しみという日々を過ごしておりまして、猫を起こさないように、をどこからかのリンクで見つけた時、すでに出来上がっていたテキストのボリュームと、さらにそこから膨らんでいく規模と密度に興奮して過ごしてました。
 どれだけテキストがあれど更新されなければ更新チェッカーに取り上げられず埋まってしまう世界の中でも、一際存在感のある猫を起こさないようにには格別の思い入れがありました。
 当時私は大阪市内のアパートに住んでおり、何かしらの創作で世に出たいと夢を抱いて過ごしていました。
 目指す媒体は違えど、やがては猊下や方々のようなテキストに影響を受けた、大袈裟にいえばテキストサイトの子として糧にして成長していく自分を夢見ていたのです。
 ある日テキストサイト界隈でおおきな盛り上がりがあり、サイト運営者の方が集うようなクラブイベントの話なんかがあって、私の記憶の中ではあの日以来、界隈の意味が変質してしまったように覚えています。
 結局のところイベント開催能力、対人能力、そしてなりより東京に住んでいること、いかに自分がおもしろお兄さんか、それらを高らかに宣言する場のように思えてしまい、今でいえばリア充だの人権だのとそれらを表現する言葉はたくさんありますが、当時はそれをうまく表現する言葉が私にはありませんでした。
 小鳥猊下のことは関西にお住まいであることや、生業の傍らでサイト運営されているということが頭のなかにありました。
 私は関西圏に生まれ暮らし、その文化の中でいきることを嬉しく思っている一人です。
 私は関西に根差し、あくまで中央とは距離を置いた場所で創作や発信をする方に常に尊敬の念があります、
 ただテキストサイト界隈が、関東のテキストサイト運営者の馴れ合いになる中で、猊下はどのようにお考えなのかと思い、自分の心情と重ねてしまったのが当時の私で、その延長に今もあります。
 もしこの質問箱というのが質問を投書するものであるなら、その時期のテキストサイト界隈をそんな目で見てた一読者についてどう思われるでしょうか、ということになるかもしれません。
 確か2001年あたりには逃げるように仕事で千葉に転勤になり、創作の友とも離れ離れになり、ネットからも距離を置いて働くなかで現地で結婚したりなど、もう夢とか創作とか、遠く離れた場所で生きております。
 それも20年のお話でおぼつかない部分、ポッカリ抜けている部分ばかりです。
 「ヘイ、総理大臣官邸かい。今から一時間後、首相をブチ殺しにいくぜ」
 プロフィールにあった、オーガの台詞をスキャンしたコマ、100人オフレポの最後にあるの、様々な思いが入り混じり。
 一切合切を吐き出すようなつもりで書いて、なんの中身もないお目汚しを晒すことになりましたことをお詫びします。
 心より愛を。

回答:長文の質問に対しては、長文の回答で遇したい! 質問箱のクソ仕様による転送が腹立たしいので、ツイッターにて以後の返答を行うこととする!
 「20年が経過したからこそ、書くことのできたファンレター」といった内容に、深い感慨を抱いております。「時間あまりのカネなし文系大学生」に「回線速度の遅いインターネット」という2つの要素が偶然に重なり、極めて特殊な文化が一時的に形成されたーーそれがテキストサイト隆盛の印象です。当世風に言えば「陰キャのコミュ障」が、記述したテキストでならば、だれかに何かを伝えることができる、ただ一つの場所のように感じていました。よく使う例えですが、当時のテキストサイト群は、「私がただ音を発するだけの肉の塊だとしても、あなたは愛してくれるのか?」という馬鹿げた(しかし切実な)問いかけと極めて近いところに存在していたように思います。いま確認したら、ウガニクのホームページの最終更新日は2000年8月19日でしたが、このあたりまでが自分にとっての「テキストが魔法として機能した神代」であり、これ以降は管理者の人物がサイト上のテキストと密接にリンクする「人の時代」になっていく感じです。現実でのイベントによる交流と、管理人同士の人間関係がネット上でサイトの位置を決める。当世風に言えば、「陽キャの高コミュ力」がちやほやされ、アクセス数を稼いでいく。それって現実とまるで同じじゃないかという、陰キャ丸出しの憤慨と反発の気分はずいぶん長くあり、依怙地なまでにテキストだけの活動にこだわっていたことを思い出します。そうは言いながら、何度かオフ会を開催してみたり、たぶんその時期にいくつかの分岐点があったと思うのですが、最終的に変化を選ぶことができませんでした。そして、2001年1月18日に開設されたあのサイトが古のホームページ群をすべて過去のものとし、インターネットに満ちていた神秘のマナの残滓は完全に消滅します(少なくとも、私からはそう見えました)。だれかのツイートで「小鳥猊下の文章には生活臭さがなくてすごい」みたいに書かれたことがありますが、おそらく以上のような経緯を前提とした「テキストサイトの文章は文章のみで成立せねばならず、現実の書き手の人生と連絡を持つべきではない」という強い思い込みが、根底にあったからだと思います。もっとも最近では、特にツイッター上でだいぶルールが緩んできており、忸怩たる気持ちはあります。しかし、ネット上にしか存在しないキャラクターとは言え、二十年の長きを交わらぬまま並走してきますと、気づかぬところで融合している部分があるのは、避けられないところかと納得してもおります。じっさい、2016年1月3日に小鳥猊下へまつわるすべてのアカウントを削除して閉鎖に至ったときは、我が子を鈍器で背後からなぐりつけたあげく、まだ生きているその首を手づからに絞めて死なせるような、何とも言えない気分になりましたから。話がだいぶそれましたが、ご指摘のように100人オフ会レポートの最後は、古いテキストサイトのエンディングとして書いた側面があります。2018年10月20日に行われたあの会は、婉曲的に表現するならヒコホホデミとホムダワケに謁見することができたおかげで長年の憑き物が落ちたという点で、正にエンディングにふさわしい場所でした。もっとも、2011年8月のコミケC80参戦レポートのときも同じような気分で書いており、結局のところ、私が死なない限りはエンディングの延伸されていく無様さを何度も何度もさらすしかないのかな、と感じる日々です。まあ、なんとかここまで生きてきましたので、またなんとかどこまでか生きていきましょう、お互いに。


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