雑文「個人と集団について」

 すごい……カラボスの小石を集めながら、旧・銀英伝を見ていると、人生からどんどん不安が消えていく……生命が消えるまで、もうずっとこうやって過ごしていたい……。

 銀英伝ぐらいだと、権力を戯画的に批判するのが、まだそんなに気にならないなー。悩みながらも弱小の組織を運営するリーダーとしてのヤン・ウェンリーが描かれているからでしょうか。これがドラゴン兄弟になると、個人から組織への言いたい放題になって、バランスが崩れちゃう。キミら、手前勝手な理屈を他人に押しつけながら暴力で蹂躙していくの、無惨様とほとんど変わらへんで。

 一部の作家や引きこもりは集団に属さない究極の個人なので、己を圧殺する装置としての組織を想定してしまいがちなのだと推測します。つまり、本気で殺されると思ってるから、相手が「壊れても、潰れても、死んでもいい」ような過剰防衛とも見える反撃ができるのかなと。「組織に一度も属したことがない」ことと、たぶん「親子関係が支配・被支配の関係だった」の2点が彼らの底流にあるのかもしれません。いったん管理する側の立ち場を経験すると、野党的・左翼的な言説のいっさいをリアルなものとして受け止められなくなるものです。私の映画やゲームへの感想なんかもそうなんでしょうけど、「責任を取らなくていいこと」「まったく無関係であること」が明白な立ち位置からしか不可能な放言というものはあって、対象から遠ければ遠いほど、その内容は苛烈さを増していくように思われます。「いいね」つけだしてから特に感じるんですけど、ツイッターってフォロワーの多寡に関わらず、無所属の個人から無関係の集団への発言が多いように思います。いったん双方の内情が見えると、単純に言葉へ落としこんでしまえない事柄が増えていき、視点のグラデーションはどこまでも細分化していきます。

 あと、視点のグラデーションと言えば、ヴァイオレット・エヴァーガーデンの感想について捕捉しておきます。昔だったら「主人公きゃわわ、ちんちん入れたい」ぐらいの感情しか生まなかっただろう物語へ、「死んだ父親が亡霊となってこの世にとどまり、残された娘の苦しみをただ見守るしかないときの腕のもみしぼり方」みたいな玄妙極まる気分の視聴をしてて、世界を定点観測する位置を違えまいと意固地に決めてきた自分が、いつの間にか少しずつ流されてあの頃とはまったく異なった場所にいることへ気づかされるのです。

 でも、いまいちばん大きい気持ちは、一刻も早くすべての責任を放棄して、人生という舞台から降りて観客席に戻りたいというもの。もはや使命感は消え、ただ最前線の塹壕にいる兵士たちが故郷の家族を思い出して踏みとどまるように、同じ場所で踏みとどまっているだけ。

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