映画「RRR」感想

 気になってたRRR、ようやく見てきた。アカデミー賞7冠作品ーー(ロンパリ前歯2本欠損ダブルピースで)えぶえぶ、さいこお!ーーと比べてはるかに小賢しくなく、御見物の見たいと思っている場面と浴びたいと思っている感情だけを、ストーリーの整合性などガン無視して投げつけてくる、本邦で言えば大卒率が2割にも届かなかった昭和前期のような「ザ・大衆向けエンターテイメント」でした。余談ながら、この「大衆」の消滅に伴って、フィクションは物語の帳尻あわせばかりを気にする「小賢しさ」をまとうようになっていくわけです。率直に言って非常に楽しめたのですが、あらかじめネット激賞に触れてしまったことの弊害は強く感じましたねー。「3時間が一瞬で消える」や「10分毎に見せ場がある」を信じて劇場に足を運んだのですが、序盤の兄貴と弟分のイチャイチャには寝そうになりましたし、終盤は長時間の着席に尻が痛くなってスクリーンへ集中するのに難渋しました。

 また、古代王国を舞台とした前作とは異なり、物語の背景を「英国の植民地支配に苦しむ印度」としたところが雑味になっている気がします。「適度に日常と関係ない、適度に自国から遠い場所」で行われる「愛国」だからこそ娯楽として消費できるのであって、「アヘンを媒介とした英国の支配にあえぐ清国」みたいな距離感だったら、いま大はしゃぎで皆様がやってらっしゃるようには、きっと素直に楽しめないことでしょう。本邦には入ってこないので想像するしかありませんが、大陸産の「抗日ドラマ」が大衆に与えるような快楽の要素が、本作にはどこか混入してしまっているように感じました。そうなってくると、舞台をリアルに寄せたせいでしょう、中途半端な大卒の文系にとっては「史実」と「史実っぽさ」の違いが気になりはじめるのです。バーフバリの物語は神話に近い内容であり、ストーリーの整合性の無さはあらかじめ性質として織り込まれていましたが、ここまで我々に近い歴史を取り扱っていると「手紙で知らされていた兄貴分の真情を、婚約者が弟分に語って聞かせる」場面でも、「いやいや、その内容の手紙を書くヒマも投函する隙間もなかったですやん。そもそも、それだけ慎重に反乱の計画を練っている人物が、英国による検閲の可能性が極めて高い手紙なんかに情報を残しますか?」などの思考が脳裏をよぎってしまうのです。

 すいません、なんだかディスってるみたいになってきましたけど、個人的に本作を通じて受けとめたメッセージは「人ひとりを簡単に消すことはできない」というものです。昨今のSNSにおいて、ミュートやブロックやフォロー外窃視を「駆使」して「上手」にふるまうことの最大の弊害は、己の好悪や機嫌だけで個人を不可視にできる事実から、「人ひとりを簡単に世界から消せる」感覚をそのトレードオフとして否応に得てしまうことでしょう。そして、決定的な死の瞬間を迎えるまで、あらゆる個人の生には世界を変革する可能性が埋めこまれているという事実を、どこか自分からは遠いものとして忘れさせてしまう。「人ひとりのしぶといばかりの消せなさ」こそが、結果として萌芽する紛争や戦争の大元にある根の先端であり、為政者がもっとも恐れるのは「既存の法の支配下に置かれた文字による訴え」ではなく、いつだって「肉による暴力を伴った民衆の蜂起」なのです。中途半端に頭の回転が速い大卒たちによるSNS上での「政治活動」は、体制側にとってすべてが想定内の「大暴れ」に過ぎず、むしろ都合の良い「ガス抜き」にさえなっていることに気づくべきでしょう。いまこそ我々は大学進学率を大幅に下げ、大衆演劇と民草の英雄によって人々の感情をあおり、言語化に至らないがゆえの純粋な怒りを爆発させる方向へと、民衆を誘導すべきなのです。それこそが、RRRを通じて本邦を生きるホワイトカラーの学ぶべき教訓なのですから(間違ったメッセージの受信)!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?