雑文「物語のスケールについて」

 ワンピース(衣類)やシネバ(呪詛)からの客の離れ方を見ているとそれは、懐かしさ半分と惰性半分でずっと追いかけてはいたものの、次第に商売と骨がらみになって純粋さを失ったクリエイティブに対して、じつは心のどこかで嫌気がさしていたことに、鬼滅を筆頭とした近年の、伏線をキチンと回収してバランスよく終わるコンパクトな物語群によって、気づかされた結果ではないかと思うのです。物語は長くなればなるほど、物語単体としての純粋さを失って、語り手の人格や人生と骨がらみになり、作者の変節が物語の変質につながる段階を必ず迎えるような気がします。

 例えばグイン・サーガも50巻ぐらいまでは純粋なファンタジーでしたが、最後のほうでは作者の自意識を代弁する何かに成り果ててしまったのですから(それまでいっさい登場しなかったアルド・ナリスの母親が突然あらわれ、病床の息子を数ページにわたって改行無しに罵り続けるなどの、物語の自走性ではない、作者の内発性によるストーリーテリング)。

 そして物語への興味ではなくて、作者への関心で読むようになってしまうと、ストーリーへの好悪よりも語り手への愛憎が意識の前面に出てきて、エンターテイメントの観客の本来である楽しみや喜びを味わえなくなってしまうのです(私にとってのエヴァがそれ)。

 ともあれ、この二十年かけられ続けてきた集団催眠ーーテレビの形状がボックスからプレートに変わっても、まだ画面には青い猫型ロボットや入道雲パーマが映ってるーーから我々は、ようやく目覚めようとしているのかもしれません。時代の変化というと大げさですが、長い長い夏が終わり、エンターテイメントの季節が成熟の秋へと移った年として、本邦の2020年は記憶されるのでしょうか。

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