再録「亜神の住処」(mixi日記10.3.20)

 虚構の高揚感に水をかける行為は、交尾中の犬に水をかける行為と同じなのだろう。物語の自走性を読み手の興味に合わせてわずかでも曲げることができれば、もう少し人も集まるだろうにとも思うが、同時にそうなればホームページで書く意味は無くなるだろうなとも感じる。少女保護特区の結論はあらかじめ用意されていた。さらに言うなら、「両親が見ていたのは、この光景だったのか」という一行を書きたいがための更新であった。
 最近、文章芸術とはすべて、主人公の心に宿っていたようなDemigodの産物ではないかという気がしている。幼少期に楽園を得なかった人々は、その神の空席へ己自身を昇格させるのだ。そして、絵画芸術の半分と、音楽芸術のすべてはGodに由来している。もちろん、この偏見に「アマデウス」が影響を与えているとの指摘を退けない。
 長い更新を終えるのはこれで三つ目だが、終盤へ向かうにつれていずれも似たような表現が顔を出し始め、結局はいつも同じ場所へとたどりつく。毎回、意識して違う展開を心がけているにも関わらずである。己を掘り下げる書き方をすると、どの穴からも精神的な課題という鉱脈へぶちあたるようだ。ただ今回、半歩先へ進んだと思えるのは、「壊された魂はどうふるまうか?」というモチーフから「なぜ魂は壊されなければならなかったのか?」へと主観の角度が若干の変化を見た点である。
 壊された誰かが子を得て、その魂を壊さなかったとすれば、それは人の成し得る最も偉大な成果のひとつであると私は信じる。残念ながら、私には少女保護特区のエンドマークの向こうを見通す資格が与えられていない。だが、nWoを閲覧する諸君がこの偉大な課題を得たならば、少なくとも一人が君を応援していることを忘れないでくれ。
 さて、いよいよ節を曲げて、己の課題とは何の関係もない、全くの絵空事を虚構として書かなければいけない季節が訪れたのかもしれない。以前冗談めかして触れたが、もしかすると萌え学園ファンタジーなどがその良き題材になるのやもしれぬ。もちろん、nWoはホームページとしてのインタラクティブ性を最重要視していることを諸君へ伝えておく。


from nobody

4段落目を見て改めて少女保護特区を読まなければなと思いました。今晩を使って読もうと思います。こうやって書いて、気合を入れなければ逃げ出して目を背けたくなるような圧力が猊下の文章にはあります。

萌え学園ファンタジーを猊下が書けばどうなるのかすごく興味があります。恐らくそれは「小鳥猊下」としてのものではないのでしょうが、それでも読みたいです。楽しみにしています。


from nobody

わ!気づかなかった。
さっそく読ませていただきますね。
今晩書かねばならない論文を投げ捨てて!
長編作品、お疲れ様でした!


from nobody

先日、少女保護特区読み終えました。

僕が本文中で感銘した部分に、機能としての救いは人類の長い苦闘の末にほぼマニュアル化されている、という一節があります。たしかに、選ぶ手段さえ間違えなければ、心安らかに生きられるのだろうと想像はできます。しかし、完成されている救済のシステムを横目に見ながらそこに参画できないこと、それは文学の普遍的な主題でしょう。

ゲイカが歴史に列なりかつ独創的な作家である根拠は、体系化へのアレルギーという通奏低音と現代の日本における個人の隔絶が深いレベルで結び付いている事にあると個人的には解しています。

萌えゲーの結末はほとんど破滅的でした。ブレイズの最終話に、僕は、宗教的であり同時に動物的な救いを見ました。少女保護特区。家族の物語、近親相姦への欲望と恐怖。

一見して分かるように、これらはまさにクラシックそのものの主題であり、ナウシカ風に言うと、人間が何度も繰り返してきた同じ道です。
当然ですが、それだけで独創的な救済や結末などありません。そう、それは出典が思い出せないだけです。

そこに新たな意味が無い以上、読者は興味を持たないでしょう。宗教の恍惚体験を綴った聖人や異端の文章が、彼ら自身の熱狂に比べていかに退屈であることか!

一般に言って、オリジナリティが奇跡的に産まれることがあるとすれば、それは普遍性と体系化への拒否という両極のあいだを揺れるそのやり方ででしかないし、そこにこそ僕はnWoの破壊力があると思うのです(もちろんこれからも!)。

救済や結末に固執しすぎるならば、最後は普遍に回収されるしかないように思います。杞憂でしか無いでしょうが、そのようなかたちでゲイカの文章を読めなくなる事があれば一ファンとして残念です。

長々と駄文、失礼いたしました。読み飛ばして頂ければ幸いです。

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