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25年後。

(さちこさん♫ 美しいお花のお写真を、ありがとうございます❤️)


暖かい休日に、

自転車を走らせて実家へ向かった。


残念ながら、母親のことを25年後も

好きにはならないままに、

「感謝」だけの気持ちで、週1日は顔を出すようにしている。


それは、「父の代わりに」とも言えるけど。

団塊世代の、サラリーマンで、核家族。


定年退職後に、

やっと二人の時間ができたのに

「コミュニケーション」ができないままの、夫婦。

それまでは、長く仕事で手一杯だった夫婦。


喧嘩もしないけど、向き合うことをしない。

向き合うということも、知らないままなのか?


娘は、父の代わりに母の話の聞き役になる。

父はもう、補聴器をつけていて人の話がきちんと聞けない。


もしかしたら、

お互いに「話さなくてもわかる」という感性なのか?

それとも、もう諦めたのか?


別に生活をして、娘とは言え口出しはしない。

ただ、見守るだけにしておく。


母も、歩いていて単独で転ぶようになった。

それでも医者へは行かないと、頑固さは変わらない。

もう彼女には、前歯もない。


母親は、いつまでも「強いまま」ではない。

それでも身に付けた「我慢」を

今も変わりなく続けようとしている。


できれば、

「理想の老夫婦」であって欲しかったというのは

ただの娘の期待。


それはこの先の、

残りわずかな年数の「奇跡」なのかもしれないけど。


娘が父の代わりをしてしまうのは

もし父が「気がつく人」だったとしても、

母はそれをもう「受け取る」人ではなくなって

「拒否する」人に固まっているから。


干渉しないように、注意深く

週1日でも、彼らを見守る娘の役割。


同じように毎日を過ごしていても、

日々の変化があるのは、高齢者も同じ。


『助けてほしい』が言えないままの、団塊世代。

そう言えば、私も『助けてほしい』が言えなかったと

二人を観察しながら、ふと気がついた。


25年後なんて、誰にも想像はできないもの。

だから、繰り返しの今を

目の前の人と、大切に生きていくしかない。


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