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きらいなときは、きらいなままでいい

通っていた小学校は、転校生が多かった。
近所の公務員住宅が取り壊されたとき、たくさんのお友達が郊外に転校していき、その跡地に、当時タワーマンションのはしりだったのか、数棟の高層マンションがそびえ立ち、タワーマンションの完成と共に一気に転校生が増えた。又、三原山の噴火があっときは、避難してきた人達が一時的にたくさんやってきたこともあった。

親の転勤にともなって、海岸から転校してきた帰国子女の子も何人かいて、彼女はそのひとりだった。当時担任だった女性の先生は、いつもなんだかつまらなさそうで、それがこどもながらにすごく気になって「先生は、どうして先生になろうと思ったんですか?」と質問したわたしに、「他になりたいものがなかったからに決まってるでしょう」と一言、冷たく言い放った。そんな風に仕事を決めたり、先生になる人もいるんだと、幼いわたしはまだ知らなかったから、正直驚いた。それに、その言い方があまりにも冷たく、乾いている割には強みがあって、なんだか哀しくて、怖かったのだ。聞いたらいけなかったのかもしれない。

アメリカから引っ越してきたその転校生は、よく赤いダウンジャケットを着ていてた。その色合いやボリューム感は、当時の日本ではまだあまり見かけない雰囲気で、可愛いなぁと密かに思っていたのだ。MTVで観ていたマイケルジャクソンとか、プリンスみたい。
ある日、彼女が教室でそのジャケットを脱いだとき、下には半袖のTシャツを着ていたのだけど、それを見た先生が「ちょっとあなた! ジャケットの下は、普通長袖を着るでしょう! 普通は!」と大きな声で言ってから笑うと、クラスにいた子たちも一斉に「ギャハハー」と笑ったのだった。その瞬間、「ああ、これはなんか嫌なことがはじまる感じがする」と妙な予感がして、胸がざわついた時のことを、今でも哀しいくらいに鮮明に覚えている。冷たくて、さみしい音としての記憶。

それから、彼女はお友達からからかわれたり、笑われたりすることが増えて、学校をおやすみする日もあった。事態を把握した様子のわたしの母は、「みもちゃん、毎日一緒に学校にいきなさない」とだけ、わたしに告げた。それで、わたしは彼女と毎朝一緒に登校することになったのだった。それでも、小学校を卒業するまで、もっと言うと中学校に上がっても、彼女に対するまわりの態度は、あの日から大きく変わることはなかった。なにかが、一瞬で変わってしまったのだ。

わたしは、あの日のことを、今でもふっと思い出す。残念だなと思うのは、先生はたぶん、知らなかったのだ。彼女が暮らしていたのが、東海岸か西海岸だったか知らない。けれど、実際にアメリカに行くと、特に西海岸なんかは、日向と日陰で体感温度が夏と冬くらいに違うと思うときがある。だから、Tシャツにダウンとか、ミニスカートにムートンブーツなんかは、すごくフィットするし、そんな人はたくさんいる。その景色を、先生がたとえ見ていなくても、少しの愛をもって、ほんのちょっとの想像でもいいから、理解してあげられたとしたら? あの日の教室は、違う風景が広がっていたのではないかな、と。

その頃から、わたしは学校がつまらなくなってしまった。人と同じじゃないとだめ、笑われたらもうおしまい。たとえば国語の授業で名指しされて、音読のときに漢字が読めないと笑わる。だから、音読が大嫌いだった。どうかあてないで、「次、ことりさん」って、呼ばないで、と。

そんなわたしが小学校で1番落ち着く場所は、図書室だった。わたしは図書室が、本が大好きだったということを、もうすっかり忘れていた。なのに、今年娘の入学と共に小学校に再訪したことで、色々な記憶が不意によみがえってきたのだ。それは、廊下を歩いているときや、図書室の木で出来た本棚が視界に入ったときなど、ふとした瞬間に急にやってきた。

通っていた小学校の図書室は、校庭に面した上層階にあって、見晴らしがよく、西日が差し込むとその優しさは一層増した。静かで、安全。
わたしはそこで、主にヨーロッパの地理の本を読みあさり、妄想世界旅行をするのが好きだった。本に載っている写真を白黒コピーで大量にとり、エッフェル塔、凱旋門などを妄想で巡り、一冊の旅行記を作ったのだ。自由を得たみたいで、背中に羽がはえたみたいに気持ちが軽くなり、ただ楽しかった。

そうだ。
わたし、ちいさな頃は絵本が大好きで、漢字が難しくなってきたり、国語の授業の音読で読み方を間違えて笑われたりする前は、ずっとずっと、本が好きだったんだ。どうして忘れちゃったんだろう。忘れたかったのかな、隠したかったのだろうか。

笑うのと笑われるのは、白と黒くらいに世界が違う。あの日、母が「とにかく毎日あの子と一緒に学校にいきなさい」とわたしに伝えた意味は、きっと寄り添うことだった。人と違ってもいいのだ。当たり前だもの。それよりも、無視をしないことのほうがよっぽど大事。そんなことを、親になって小学校に再訪し、ふっと思い出した。
この先わたしが娘に教えてあげられることがあるとすれば、あの日の母と同じように、なにがあっても公平な目で、寄り添うことの大切さだ。嫌いだと思いこんでいた小学校の記憶も、よーく掻き分けて覗きこんだら、好きだったこともちゃんと思い出すことが出来た。それは、言葉にするには単語を見つけるのが難しいくらいの、嬉しい再会だった。

こどもがみんな、学校が楽しくて、友達100人できるわけではないのだ。それでもいいんだよっていう肯定と、じぶんの世界観で、楽しみを見つける知恵や眼差しを育んでほしい。そのためにわたしが出来ることがあればいつでもなにかと、少し離れた場所から思っている。けれど、それをじぶんで見つけて育むことが出来たら、痛みすら力に変えられるだろう。

ほうっていても止まることはなく、時は過ぎる。環境は勝手にでも変わるから、きらいなときはきらいなままでいい。もしかしたら、嫌いに隠れていた好きを思い出せる日がくるかもしれないことを、はじめて知った。それはまるで、あの日の幼い自分が、いつかのわたしに、こっそり隠してくれていた宝箱を見つけたような体験だった。ギフトと呼んでもいい。それほどに優しくて、力強い贈り物だった。

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