母と娘のブルース 【キナリ杯】 :はじめましての投稿
息子が生まれて27日後に母が亡くなった。
絶望した。
母が癌だとわかってからすぐに息子を身ごもったことがわかった。床上げまでは絶対生きるからって言葉通り、母は私とまだ首もすわらないぐにゃぐにゃの息子を残して旅立った。朝、私に、病院から帰ったら花の水やりするね。あなたはゆっくり寝とくんよと言い残しそのまま旅立った
母は陽気な人だった。
仕事が終わって帰宅すると、私の友達を集めて飲み会開いてたなんてざらにあったし、海水浴に行った友達がなぜか我が家でシャワーあびて昼寝してそのまま晩ご飯食べてたなんてことは、日常茶飯事なできごとだった。
トウモロコシたべてたら、前歯の差し歯が2本トウモロコシに刺さっていて、記念に写真撮ってなんておちゃらけたり、癌がわかったあとに慣れないマスクが息苦しいと鼻の部分を切り取って鼻だけ丸出しの新しいなんの効果も期待できないマスクでインフルエンザを予防するような、そんな陽気な母だった。症状が進むにつれ、食べれない。飲めない日々が続く中でも氷なら口に含めるからと買った水筒に氷だけ入れて、毎日毎日遠足じゃわと言いながら斜めに水筒をぶら下げて1人ピクニックをして過ごす、そんな陽気な母だった。
母が亡くなって、私たち家族は目と鼻の先の自宅から、鼻と目の先の私の実家に父の世話をするために戻ったのだけれど、私は毎日絶望してしていた。
毎日毎日、母乳を飲まない息子に丸出しの乳を口元あたりにぶらつかせながら聞く音楽といえば千の風になって。
父はまだ働いていたから、家族が帰宅する20時30分まで朝からほとんどの時間を丸出しの乳と千と風な日々を送り、夕暮れ時にはワンモアタイム ワンモアチャンス的に黄昏ながら、時には会いたくて会いたくて震える日々。 家の前の田んぼにキジが来て鳴けばそれが母の名前に聞こえて涙が溢れた。重症だ。夏の終わりに、ただただひたすらに母に会いたくなる……
息子の成長とともにどんなお祝いの時も母を思い出し、悲しみの時には自分が母親になるより長い間の娘の時間に思いをはせる日々を送りながら、3年たった頃に娘が生まれた。
娘は喜怒哀楽を表現するのに長けている。そして驚く程に私の小さな頃に容姿が似ている
3歳半まで母乳を飲んだ。保育園から帰って来たら、ちょっとそこ座って乳だしなって闇金の取り立て屋のように私の首根っこ掴んで人をだめにするクッションに横たわらせた。もう出ないから今日で終わろうよと言えば、ヤクルトでも飲んでるような吸い付きで母乳うがいまでやってみせた。卒乳は難しいと判断した私は、お乳に絵を描いてみた。こんな子供だましにだまされるかって手で押さえて飲んでた。あの手この手で悩んだ末にカレンダーに丸をつけて、この日からお乳は味が変わるんだよと10日間呪文のように言い聞かせ、決行の日に生姜を塗った。娘は眉間にシワをよせ
「ん?なんか味が……これ、ガリじゃね?」
といいながら、おもむろに冷蔵庫の扉をあけガリを取り出し、私に言い放った
「うん。お母さん、、、もうガリでええわ」
悩んだ断乳は、あっけなくガリに取って代わられ、その日から当分毎日ガリだけにガリガリさせながら食べまくるだけの、ガリガリ君の乱が始まったのだ。
喜怒哀楽を全身で表現しながら、それでいてとんでもなく繊細な娘に私は羨ましいなと思う反面、母親として愛情不足なんだろうか。この子は何かほかの子と違うんだろうかと悩むことも多くなった頃、PTAの役員を引き受けることになった
役員になると半ば強制的に講習会に参加させられることもあり、嫌々参加する割にはその度に感銘を受け、メモをとり実行するのだけど、ほとんどの先生方は、褒めて育てましょうと講演され、その度に私は息子と娘を褒めた。褒めたというよりはおだてた。そのときはうまくいく。556のスプレーノズルが錆び付いた歯車を動かすように。私はその度に、やっぱり褒めて育てなきゃと考える。だけど、時間がたてば尾崎豊バンザイ!な魂の叫びを毎日、毎日繰り返す娘とどう向き合えば良いのかわからなくなり、それが続くとやっぱり私はうだるような暑さの中のひまわりのように、種の重みに最後はぐったりと頭を垂れてしまうのだ。その新しい生命に気づくことなく。
ほとほと子育てというものに疲れていた。
喜怒哀楽を全力で表現する劇団四季よろしくの娘の魂の心配ないさ~に、逃げ出したい気持ちでいっぱいだった半袖の季節に、ある先生の話を聞いた。先生の名前も失礼ながら覚えていないのだけど、私を指名し何か子育てで困ったことがあるか問われた。
私は、子供の感受性が強すぎてそれを受け止めてやることが難しい。よく泣いて困る。そしてよく怒って困る。私の愛情不足からかもしれないと相談したと思う。先生からは、何故感受性が強かったらダメなの?なぜ泣くのがダメなの?なぜ怒ると困るの?と聞かれた。
なぜ泣いたらだめなんだ?
なぜ怒るのが困るんだ?
私はなんの言葉もでなかった。
娘さんの話をする前にあなたとお母さんの関係性を聞かせて欲しいと言われて、疑問に思いながらも母親との関係性を話した。そして、お母さんはなぜその時にそう言ったのか帰ってお母さんに聞いてみてねとアドバイスされ、もう母は亡くなり、母からは何も答えは聞けないと話すうちに、私は嗚咽でなにも話せなくなり、私の涙に誘われた周囲がもらい泣きをし、会場全体が泣き出したとき、先生から、娘さんはあなただよ。あなたが小さい頃にお母さんにやりたかったことを娘さんがあなたの代わりにあなたにしてくれてるんだよと言った。
ストンと何かが落ちていったのを感じた
母は専業主婦なのに忙しかった。
私を連れて趣味の習い事の教室にでかけ、小学校にあがる頃には自分が教室を開いていた。教室とは名ばかりの月謝もない趣味の世界に、毎日毎日誰かがやってきてコーヒーを飲みながら趣味に没頭し、また誰かが誰かを連れてきて没頭する、それはどんどん大きな会になっていった。週1回から、2回になり、午前中の部と午後の部に分かれ気がつけば朝から晩まで毎日毎日。土日だけは休むと言いながら、土日には自分だけの趣味に没頭していた。
私は3人兄弟の末っ子長女で両親からも兄からも可愛がられたと思う。そして、叱られる兄2人を見ながら要領よくやってきた。
そんな私に母は、あなたは良い子だね。勉強なんかはできなくてもいいんだから、愛嬌だけは振りまきなよ~。女は愛嬌だよって笑ってよく言って聞かせた。
本当は泣きたいけれど、母は私にあなたは強いねと先回りし、私は泣くのを我慢した。だけど、たまにグズグズ泣く時は徹底的に抱きしめてくれた。決まってその後、私は[もうお母さんに迷惑かけちゃいけないな]って反省した。
親子関係は良好だったと思う。周りの友達みんなが、私の家の子供になりたいと懇願するような家庭に、母に私は育ててもらったと思う。だけど、人並みにひと通り反抗して、大人になって、結婚して、これからが恩返しだと思った矢先の病気になった母を前にして一緒に泣くこともできず、1粒の涙も見せてくれない母を思い、私はお風呂で毎晩泣いた。
帰ってくると信じて病院に送り出した母の背中。会えなくなるならずっと思ってきた感謝も、後悔も全て生きてる母に伝えたかった。私はずっと後悔していた
娘は毎朝、ハグをしてと言う。朝、ハグしたら元気になるからと。昼にハグする時もある。お母さんを補充すると言って。
ビッチリ書いた感謝の手紙をなんの記念日でもないただの水曜日に生協の宅配のように届けてくれる
次の火曜日には、沢山の絵を書いたハートだらけのぶりぶりな手紙をヤクルトの宅配のお供に届けてくれる
小学校から歩いて帰りながら、豆粒ほどの娘が私を見つけたら、お母さ~ん。会いたかったよ~と全力で走りながら帰ってくる。私は初めてのおつかいさながら両手を広げて座り込み娘の到着をぷるぷる震える足とともに待ち、たった数時間の別れを2人で補充しあう。
だけど、私はきっと母と同じことをやりたかったんだ
目が会う度に、NONSTYLE井上ばりの投げキッスを飛ばしたり、大塚愛のさくらんぼのしらべにのせて縄跳び飛んだり、好きな漫画のキャラクター取り合ったり……
私は母とそういうことをやりたかったんだ
私にそっくりな娘がみせる愛情表現を、もうずっと愛情不足だった母にそっくりになってきた私は真正面から受け止めながら、今日も私は娘と2人、お風呂で熱唱する
聞いてください
秦基博さんの楽曲で「ひまわりの約束」
なんで?!
#母と娘のブルース 。息子だっているんだかんね
ポンコツ主婦ですが、サポートよろしくお願いします。