第1話

「流布」

序章

流布(るふ)・・・ [名](スル)世に広まること。広く世間に行き渡ること。「妙なうわさが-している」 【大辞泉】


ある日、いつものように駅で新聞を買い、京葉線に揺られながら読んでいると、芥木賞のことが書かれていた。芥木賞といえば、数年前にアイドルのような女の子が受賞し、一時期騒がれていたな、と思いつつ記事を読んだ。まさか、このことが私の生活を一変させるとは露ほども感じないまま・・・。

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『芥木賞、第一次選考結果発表!』

芥木賞の第一次選考会が去る5月1日に山の上ホテルで開催された。本年は応募された作品のうち、書類選考に通った作品が10篇あり、協議の結果、3編が候補として選考された。芥木賞選考委員会の発表によると、今年の応募作品は全般的に無難な作品が多く、選考基準をどういった点に置くかが議論の中心となったようだ。「選考に残った3篇についても、2編については委員の意見が分かれ、選考に苦労した」と三河委員長がコメントしていた。残る1篇については全委員ともに絶賛し、早くも芥木賞決定の様相を見せているらしい。このあと、5月22日に同じく山の上ホテルで最終選考会が開催され、その場で本年の芥木賞が決定する。

選考に残った作品は以下の通り。

「流布」 某氏

「天上天下」 伊関 吾郎

「透明人間」 大沢 太玖美

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 記事を斜め読みし、特に何を思うでもなく、次の記事を読んだ。昨日は日経平均も150円ほど上がったようだし、そろそろ手持ち株の売り時かな、などと考えているうちに新木場駅に到着した。ここから地下鉄に乗って会社に行き、仕事をこなして、夕方帰路に着く。出世コースからは数年前に外れており、先のことはともかく、今は気楽なサラリーマン稼業を続けている。子供がいないため、週末には妻と食事に出たり、たまにはホームグラウンドとしているゴルフ場で仲間とラウンドしたり、割とのんびり、平凡に暮らしていた。多少刺激が欲しい気持ちもあったが、平凡な暮らしもまんざらでもなく、まあ、可もなく不可もなく、一昔前に流行った言葉を借りれば、中流階級にどっぷり使っていたのである。


第1章        第一次選考会

「それではこれより平成20年度の第一次選考会を始めたいと思います。委員の皆さんはほとんど顔見知りでしょうが、一応ご紹介させていただきます。その前に、私、今年の芥木賞選考会の事務局長を担当しております、山本と申します。至らぬ点があるかと思いますが、よろしくお願いいたします。」

事務局長の挨拶で今年の芥木賞選考会が始まった。場所はとても都心とは思えない閑静な高台にある「山の上ホテル」が会場となった。選考委員には文壇の錚々たる面々が名を連ねており、会場には、凛とした、張り詰めた空気が流れていた。

「今年の応募作品は先日連絡させていただいた通り、10編ございます。例年通り、今回の第一次選考会で数編の芥木賞候補作品を選んでいただき、後日行われます最終選考会でそれらの作品から芥木賞を決定したいと考えております。まず、皆様から事前に提出していただいた「候補リスト」を集計し、各作品にポイントをつけましたのでそれをご紹介します。」

山本はそう言うと横の机に置いてあった資料を取り上げ、各委員の前に一部づつ置いてまわった。

「例年ですと、集計結果で大差がつくことは稀なのですが、今年はひとつの作品が突出したポイントを獲得しました。」

配られた資料には各作品の名称と作家名、そしてその作品が取得した総合ポイントが記載されていた。10ポイントを取得した作品が2つ、7つの作品は2ポイントから4ポイントと低調であった。残る1作品は満点となる25ポイントに1ポイント足りない24ポイントを取得しており、山本の言う通り、他の作品を圧倒していた。先程までの凛とした空気は、いつの間にか各委員の感嘆とも取れるため息とささやきでかき乱されていた。山本は選考会が始まる前から考えていた一言を皆に伝えた。

「本来ならこの後、各作品について皆さんのコメントを聞きながら候補作品を絞っていくのですが、ほぼ満点に近い『流布』については候補作として確定してはどうかと思うのですが、如何でしょうか。」

山本がゆっくりと委員の顔を見回していったが、特に異論を唱えるものはいなかった。最後に選考委員長である作家の三河裕次郎と目が合った。三河は委員長として決定を下すべきと判断したのか、徐に口を開いた。

「山本さんにまとめていただいた結果は、この『流布』という作品が他の作品とは比べるべくも無いということを表しているのでしょう。特に皆さんから異論が無いようでしたら候補作品として決定してもよろしいかと思います。」

再度山本が各委員の顔を見回してから、結論を出した。

「それでは他の作品の選考に移らせていただきます。」

こうして『流布』という作品はあっけなく第一次選考会をクリアした。山本はこの作品が持ち込まれたときのことを思い出していた。あれは応募期限を翌日に控えた日で、そろそろ応募作品の取り纏めを始めようとしている時だった。K出版の相澤君が電話をかけてきて、芥木賞の応募について是非とも相談がある、と言ってきた。期限が翌日ということもあり、急いでいたのだろう、時間が取れる旨を伝えたところ、すぐにこの『流布』を持って事務局に尋ねてきた。

「どうしたんですか、電話ではかなり慌てていたようでしたが。」

応接室に通しながら探るでもなく、何気なく聞いた。すると席に着くのももどかしいといった体で相澤が話し出した。

「山本さん!見つかったんですよ、すごい作品が!!芥木賞は毎年優秀な作品が集まりますが、これほどの作品は本当に久し振りです。もしかしたら昭和以降の全作品に比べても引けを取らないのではないかと思われるほどですよ!!」

かなり興奮しているらしく、口の端に泡のようなつばをため、まさに「口角泡を吹く」と言った感じで相澤が話を続けた。

「とにかく素晴らしい作品なので、是非とも選考の対象にしてもらえませんか。」

「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。少し落ち着いて話をしてもらえませんか。まあ、お茶でも飲んで気を静めてください。」

相澤は目の前に置かれたお茶をごくりと飲み、「あちぃ!」と素っ頓狂な声を上げた。

「めずらしいですね、いつも冷静な相澤さんがこんなに興奮して話をするなんて。そんなに素晴らしい作品なんですか?」

ハンカチで口の周りを拭きながら、少し落ち着いたのか、先程より半オクターブほど低い声で相澤が答えた。

「先日、うちの会社に「原稿を読んでくれ。」という電話があったんです。たまたま私が受けたので、それじゃあ送ってくれということで原稿を送ってもらって読んだのですが、これがなんとも素晴らしい出来なんですよ。で、本人にその旨を伝えたところ、私のほうから芥木賞に応募してもらえないだろうかと依頼されましてね。本来なら本人が応募すべきなのでしょうが、かなり忙しい方で、私が代理で応募するか、さもなくば応募も出版もあきらめる、と言われるのです。」

「なんだか変わった方ですね。芥木賞の応募くらい、いくら忙しいとはいえ、ほんの数十分で出来るでしょうに。何か訳でもあるのですか?」

ちょっと困ったような顔つきになった相澤は、さらに半オクターブほど低い声で、慎重な話し振りで先を続けた。

「本当に忙しい方で、応募した後の対応とか、直接連絡を取ったりとかの作業を代理の者に委ねたいらしいのです。で、たまたま私に白羽の矢が立ったというわけでして。私が代理人として応募することは、ルール上、問題になりますか?」

「うーん、どうかなぁ、そういうケースは記憶に無いですし。。。多分大丈夫だとは思いますが、確認してみないと何とも言えませんね。」

「あと、ペンネームで応募したいといっているのですが、こちらは問題ないですよね?」

「ペンネーム自体はなんら問題ないですね。あるとしたらやはり“代理人による応募“と言う点ですよね。過去の例や、規約を一度チェックしてみないとお答えしようが無いですね。」

結局、山本が預かる形でその場は収まった。応募期限が翌日だったこともあり、山本は相澤が帰るとすぐに資料に目を通した。案の定、そのような条項は特に記載が無く、また、過去にもそのような事例は一切無かった。山本は事務局長として判断に困ってしまった。芥木賞に応募する場合、他の文学賞と同様で、未発表の作品であれば基本的に何ら制約はないと考えて良い。今回のようにペンネームでの応募も可能である。しかし、”代理人による応募“についてはどう考えれば良いのかがわからなかった。そもそもこのことに何かメリットがあるのだろうか?他の作品との間で不公平が生じたり、悪意を含んでいたりするようなことが無ければ問題は無いだろう。時間が無いこともあり、山本は事務局長としてそのように判断した。一応、念のため審査委員長である三河氏に電話をして事情を説明したところ、山本の判断で良いだろう、ということであった。こうして『流布』が本年度最後のエントリー作品となったのである。


第2章        青天の霹靂

 芥木賞の第一次選考結果を新聞で見てから一週間ほどが過ぎた頃、サラリーマン向けの週刊誌が電車の車両内に広告を掲載していた。でかでかと目立つことを意識して書かれたメッセージは、『この素晴らしい作品を創造したのは誰か?』とあった。横に10ポイントほど小さな文字で「芥木賞候補作品、「流布」絶賛!!数十年に一度の作家が誕生か?!」と書かれていた。うろ覚えの記憶では、確か、先日の新聞記事には応募作品の大半は無難なものであり、選考基準を決めかねているようなことが書かれていたはずだが、そんな素晴らしい作品もあったのか。そんなことをぼんやりと考えたが、隣の記事に目が移った頃には、もうすっかり興味を失っていた。元々、芥木賞などというものにはあまり興味もなく、たまたま電車で揺られるに任せて目に入ったから読んだだけであった。当然、記憶の引き出しにしまわれることも、この時はなかったのである。

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感性豊かな表現は日本文壇に対して大きな一石を投じたのではないか?


海外で長く生活をしてきたとこともあり、日本人が本来持つ細やかな感性と、海外で培われた、大陸的思考とでも言えるような大らかさをバランスよく持った作者だからこその表現がとても素晴らしい。日本人の美意識をその大らかさで表現している。


いや、何度も芥木賞に応募していたが、あまりにも選に絡まないため、素性を隠して応募したらしい。


A市に住むK氏が趣味で書いたそうだ。賞にはまるっきり興味がないのだが、たまたま原稿を読んだ出版関係者が絶賛し、やっとのことでK氏を口説き落として投稿したらしい。K氏は選に残るとははなから思っていなかったらしいが、念のため、投稿の条件として素性を一切明らかにしないことを指定したらしい。というわけで、『某氏』などという一風変わったペンネームになった。


作品を書いたN氏は、東京湾岸に本社を構える大手IT企業の社員らしいとの情報を得た。


某氏は・・・


etc、etc、、、

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 来る日も来る日もマスコミは素性を明かさぬ芥木賞候補を取り上げ、ある事ない事を書き連ねていた。世の中、よっぽどニュースに飢えていいるのか、ボルテージは上がるばかりで、ついにはNHKの全国ニュースでも紹介される始末であった。あまり興味のない私でも、これだけマスコミに取り上げられると、いやがうえにも見聞きすることになる。ある時、昼食を行きつけの店で取っていたところ、店内にあるTVでワイドショーが放映されていた。登場したレポーター(単なる出刃亀?)が言うには、どうやら作者は東京東部に本社を構えるIT企業のI社に勤めているサラリーマンとのこと。(さすがに会社名を言うことは控えたらしい)このI社は業界ではめずらしく、どこのメーカーにも属さず、20年弱で東証1部に上場した会社らしい、と言うのが件のレポーターの推測であった。作者はその会社では生え抜きの社員であり、会社の発展にも大きく寄与してきたらしく、同年代で最初に部長職となったエリートでもあり、立場上、素性を明かすタイミングを見計らっているのではないか、というコメントでコーナーを終了した。カツ丼を食べながら聞いていたが、TVの位置が斜めだったせいか、首に少し違和感を覚えつつ店を後にした。オフィスに向かいながら首を軽く回し、こりをほぐしていたら、さっきのワイドショーを見ている時に感じた心の中の違和感が、フッと明確になった。目の前に聳えているビルに本社を移してから早10年。本社は現在東京都中央区にある。3年前に東証一部に上場しており、しかも、どこのメーカー系列にも属さず、昨年設立20周年を迎えたばかりである。ということは、うちの会社はさっきのワイドショーで言っていた条件にマッチしているではないか。まあこの業界には似たような会社がいくつかあるから、この程度でうちの会社とは判断できないが。。。

“ん、そう言えば、以前、業務の都合上、それらの会社を比較する資料を作成したことがあったな。”

確かその時の情報では、皆、本社が東京西部または南部にあって、東京東部にある会社はうちだけだったはず。

“ん、ん、ということは、件の某氏が所属しているのはうちの会社ではないか。ワイドショーは他になんて言っていたかな、確か、生え抜きの社員でエリートとか言ってたよな。ということは、設立直後に入社して、5年程前に開発三部長になった同期の森本か?!”

ここまで考えたらオフィスにたどり着いた。しかたなく、もやもやした気持ちのまま午後の仕事(と言っても、それほどきつくない仕事)に没頭し、しばらくの間、森本のことは忘れていた。

仕事はあっという間に定時を迎え、その途端、昼のワイドショーのことを思い出した。森本は同期入社なので今年で入社20年目になるが、確か5年前に2段飛びで部長に任命された。当時はミニバブルの影響もあり、会社も世間も行け行けで、その波に上手く乗ったあいつは、その年、大いに結果を残し、確か、年間表彰も受けたはずである。その後も着実に階段を駆け上がり、今年の4月には40代初の開発本部長になっていた。10年前に失敗し、その後、ずうっと一介の研究職に甘んじてる私とは、出世と言う意味では雲泥の差があった。彼が『某氏』だとしたら、公私とも才能があるということか。。。普段は出世とかには興味を抱かないが、さすがにこの時は、少しやるせない気分になり、しかたなく帰り支度を始めたのであった。

オフィスを出ようと1階のロビーを横切ろうとしたら、自動ドアの外にプロっぽいカメラを持った、ちょっと胡散臭そうな人間が数人、警備員となにやら口論しているようであった。ドアの向こう側なので何を言ってるのかまではわからなかったが、少しいやな雰囲気を醸し出していた。テンションが下がっていたせいか、そのまま出ると余計な騒ぎに巻き込まれそうな気がした。しかたなく騒ぎに巻き込まれないよう、裏口から帰ることにした。


第3章        私は小説家?

 翌日、出社して自分のデスクがある部屋に入っていったところ、女子社員が数人集まって井戸端会議をしていた。噂話はあまり好きではないので、巻き込まれないよう遠巻きにしながらデスクに近づこうか、と考えていたら女子社員がいっせいにこちらを見て、人の価値を値踏みするような好奇の目を向けてきた。咄嗟に「おはよう!」と声をかけ、詮索されないよう身構えつつ、急いで自分のデスクに着いた。背中に視線を感じつつも、わざとらしく無視を決め込んでパソコンの電源を入れたり鞄から書類を出したりしていたら、背中のほうでひそひそ声が途切れ途切れに「あく・・・ぼうし・・・Iさん・・・」と聞こえてきた。「灰汁?」「帽子?」なんのこっちゃ?そこに彼女たちの直属上司が入ってきたため、彼女たちはしかたなく持ち場に戻っていった。それぞれが後ろ髪を引かれつつ。。。

他のフロアで行われる会議に向かう途中、いつも上役のご機嫌ばかり気にしている総務部長に階段の踊り場で出会った。軽く会釈をして通り過ぎようとしたら、

「I君、ちょっと」

と呼び止められた。会議の時間が迫っていたのであまり話をしたくはなかったが、しかたなく振り返り

「なんでしょうか」

と答えた。

「君は副業に関する職務規定を知っていますか?」

なんでこんなシチュエーションで「副業」なのかわからなかったが、大まかには理解していたのでその旨を答えたところ、

「例えば、プライベートな時間に小説を書いて、それがたまたま売れた場合の印税はどうなると思います?」

と聞いてきた。会議の時間が迫っている私はちょっといらつきながらも、

「確か、プライベートな時間の活動で、かつ、当社の利害と関係のない場合は問題なかったと記憶していますが、それが何か?」

と逆に問いかけてみた。おもむろに体の向きを代えた総務部長はなぜだか誇らしげに、

「そうなんだよね。そういう場合、特に職務規定違反にはならないんだよね。ただね、I君。当社はIT業界のなかでも数少ない独立系、すなわち、どの色にも染まっていないと言う、クリーンな企業イメージがあってだね、このイメージを壊すようなケースだと『利害関係』に関する条文に抵触する可能性もあるんですよ。I君には是非ともそのあたり、十分に理解しておいて欲しいですね。」

と言って、こちらの反応も見ず、さっさと階下に降りていってしまったのである。なんとも狐につままれたような、わけのわからない会話を置き去りにされ、しばし呆然としていたが、会議の時間が迫っていることを思い出し、2段飛びで階段を駆け上がったのである。

次の日の夕方、普段滅多に口を聞かない上司が、なにやら下衆な考えをそのにやけた顔の下に持ちながら私のデスクに近づいてきた。

「I君、たまには仕事の後の爽快なビールでもどうだい?」

“ん、爽快なビール?この人でもこんな表現をするのか”

胡散臭い誘いではあったが、今日も特に用事があるわけではなし、ましてや普段つきあいが悪いことに若干の引け目を感じていたこともあり、

「それでは、少しお付き合いします。」

などとへりくだった答えをしてしまったのである。上司が連れて行ってくれたのは、意外にも銀座(とは言え1丁目、ほとんど新橋)のこ洒落た飲み屋であった。滅多に一緒に飲むことはないが、それでもたまに行く時は決まってチェーン店の居酒屋のはずなのに、今日に限って何かあるのだろうか。。。まずはビールで「お疲れ様!」という、サラリーマンの奇妙なお約束で始まったのはいいが、普段から仲が良い訳でもない二人ではなかなか会話も盛り上がらない。結局共通の話題と言えば仕事のことしかないわけで、しばらくは今私が関わっている仕事について、わかりきったことを話していた。ちょっと洒落た店に来たからには、美味しいつまみやお酒を楽しみたいところではあるが、件の上司は、ほんの数品、ありきたりのつまみとビールを頼んだだけで、味わうでもなく、ちびちびビールを舐めているだけであった。そろそろ日本酒に変えて、つまみも本日のお奨めとある「かわはぎの刺身」でも頼もうかと思っていた矢先、急に上司が口調を変え、下卑た薄笑いを浮かべつつ切り出してきた。

「I君、君も色々準備やらがあるだろうから、休みを取るのであれば遠慮なく取ってくれていいぞ。なんなら今の仕事もしばらくは他の誰かに委ねても良いし。」

何のことかわからず、「はぁ」とか曖昧に答えたら、下卑た笑いをさらに満面に浮かべ

「君は謙虚だなぁ。その謙虚さが、あの表現のもとなんだろうねぇ。」

とさらにわけのわからないことを言い出した。その後、また仕事の話に戻り、会話は相変わらず、お通夜のような雰囲気が続いた。お陰で、ほんの小一時間しか店にいなかったのに、えらく疲れてしまった。帰り際、またまた下卑た笑いを満面にした上司は、何を思ったか、急に人の手を握り、

「君のような優秀な部下を持って、私は大変うれしい!これもきっと今までこつこつとやってきたことが報われたんだろうなぁ。うん、うん。」

と一人悦に入ってるではないか。さらに

「I君、君もこれからいろいろ大変だろうが、頑張ってくれたまえ!こんな私でよければいつでも相談に乗るからな!あっはっはっ!」

ときた。こちとら早く手を離したくて引っ込めようとしているのだが、両手でがっちりと握られた私の手は、ちょっとやそっとでは抜けないのであった。


サラリーマンにとって昼食は気分転換を行う大切なひと時である。しかし、噂話のおかげで、この日のランチタイムは無駄なひと時になってしまった。

普段は仕出しの弁当を一人で食べることが多いのだが、その日は昼前に同期の川田が突然やってきて、「昼食に付き合え」、と半分無理やり連れ出されてしまった。今日も仕出し弁当は注文してあったので、「これで450円が無駄になった」、とぶちぶち言っては見たものの、そこは同期、「それくらいケチるな!」の一言でかわされてしまった。ランチの取れる店で食事をした後、公園のベンチで他愛もない世間話をしていた時、唐突に川田が「お前なんだろ?」と聞いてきた。いつになく真剣な顔をした川田を見て、これは何かまずいことでもしたかと考えては見たが、これといって心当たりがない。その旨を川田に伝えると、今度は先日の上司が見せたような下卑た笑いを浮かべつつ、

「そう隠すなよ。同期じゃないか。もう社内ではみんな知ってるぞ。お前があの芥木賞確実と言われている『某氏』だってことを。ただ、なんで素性を隠しているのかがみんなよくわからなくて、もやもやしてばかりいるんだ。で、どうなんだよ、その辺り。」

「えっ、俺が『某氏』?『某氏』って、あの芥木賞間違いなしと言われてる?そんなの聞いたことないぞ!!」

川田は下卑た笑いをますます激しくさせ、早く本当のことを言っちまえ、と言わんばかりの表情で黙っていた。私はもう一度

「どこでそんな話になってるんだ?あれは森本じゃないのか?確かにマスコミの報道だとうちの社員なんだろうけど、古参でエリートって言ったら森本しかいないだろう。」

川田はやっと下卑た笑いを隠し、

「なんだ、知らないのか。最新情報ではエリートと言うのは間違いらしく、エリートになりそこねた奴らしいんだよ。ほら、お前の場合、10年前のチョンボがなければ今頃は森本より出世してたじゃないか。しかも、他にそういった奴はうちの会社では見当たらない。となると、該当者は必然的にお前になるんだよ。で、どうんなんだ?ここまで材料が揃えばもう種明かししたって良いじゃないか。」

10年前の苦い経験に触れられ、少し機嫌を悪くした私は、川田を適当にあしらってオフィスへと戻った。

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