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家族を看取るということ

2020年9月。祖母が息を引き取りました。末期のがんでした。
祖母の希望で最後の10日間、私は母と一緒に自宅で祖母と過ごしました。祖母を看取る娘と孫。ドラマや小説や映画でよくある話です。でも、私にとっては一生に一度の時間でした。
フィクションではないその時間にあったのは、思ったよりずっと現実的で、思ったより少し感傷的な時間でした。
今回経験したことを少しまとめてみようと思います。

祖母が末期のがんだと聞かされたのは今年の7月。
乳がんから全身転移をしていてステージⅣー完全な回復は見込めないと聞き、「ああ、残りの時間について向き合わねばならないんだな」とうっすら覚悟したことを覚えております。
がんだけではなく、骨転移で弱っていたために大腿骨骨折。整形外科手術のため入院していた祖母が、一度はリハビリ専門の病院へ転院したにも関わらず、原因不明で突如、左足股関節の脱臼。元の大病院に戻ってきたのが8月末のことで、あっという間の展開でした。
脱臼の影響で血が足りなくなり輸血。さらに肺機能の低下による身体の酸素不足から酸素チューブに繋がれました。薬の副作用で吐き気、食欲の低下。点滴も毎日欠かせない状況。
人生何が起きるか分からないとはよく言いますが、春先には微塵も想像もしていない状況に、私は少なからず動揺していました。

「おばあちゃんね、おうちに戻りたいって言うから、その準備を手伝って欲しいの。とりあえず1週間くらい来てくれないかな」
母から相談されたので、ひとまず祖母の元へ帰ることに決めたのが8月中旬。祖母は祖父が亡くなってからずっと一人暮らし。年に1回は顔を見せに帰ってはいましたが、今年は感染症予防の不安もあり帰れておりませんでした。
仕事に区切りをつけて、9月1日。私は祖母の元へ向かいました。

私が母と合流してまず一番最初に行ったことは部屋の配置変更でした。
祖母は無理な延命治療を望まなかったので、緩和ケア(残された時間を苦しみを減らして過ごす治療)を受けることに。祖母を自宅に迎えるにあたって、家の中に福祉用具を入れねばなりません。
医療用ベット、酸素機器、スロープ、車椅子…それらを置くためにはもちろん今まであった家具をどかさなければならないわけで。
今まで使っていたベット、タンス、食器棚を移動します。なにせ移動が終わらない限り、ベットは入れられないのです。それは祖母が家に帰ってくることができないことを意味します。残された時間が分からない中、祖母の意思であれば一刻でも早く家に戻ってきてもらいたい状況です。
「ごめんね、一人でやるつもりだったんだけど」と母に言われて私は「いや絶対無理って!」と突っ込みました。(ごめん、もっと早く帰れれば良かった、と後悔)
そうこうしながら、母と共に祖母を迎える準備を進めていきます。正直なことを言うと「家に戻ってゆっくり過ごす」ために必要な準備ってこんなにあるんだ!という純粋な驚きと発見でした。

まず入院していた大病院の医師看護師から、ソーシャルワーカーを通して、自宅療養の際の担当病院を探します。担当病院決めると、別に訪問看護師を探します。私たちの場合、担当病院さんは週に一回の訪問診療を行っていただき、毎日の看護は訪問看護師派遣サービスとの契約が必要になるとのこと。さらに訪問薬剤師福祉用具担当酸素機器担当大病院のソーシャルワーカーとは別のソーシャルワーカーが近いところで相談に乗ってくださいます。
担当の数だけ、情報の共有と今後の方針決定のための面談、契約書の説明と締結、支払いの手続きをして、ようやく環境が整うのです。
正直、祖母の余命について感情の整理が追いつかない中での事務的な手続きは結構しんどいものでした。

それらを乗り越えて、一通りの契約と説明会を終え、無事に退院日を迎えることができました。
無事に自宅に帰ってきたときの祖母の綻んだ顔が忘れられません。
そして開かれる担当者会議。
ソーシャルワーカーを中心に、担当医、訪問看護師、訪問薬剤師、福祉装具業者、酸素業者が一同に揃った会議が始まります。
今回私たちは日に2回の訪問看護、週に1回の訪問診療を行なっていただけることとなりました。
私たちの目標は「残された時間を出来る限り苦痛を除いて一緒に過ごす」こと。

9月の2週目。ようやく自宅療養が始まりました。
いつ祖母に身体に変化が訪れるか分からない、という緊張感を抱えながらの生活。祖母の看護の傍ら、銀行や役場への手続きや家事も並行して行います。
私は帰ってくる前に、密かに心に決めていたことがありました。それは「倒れない・無理をしない」こと。食事と睡眠。何事においてもそうですが、体力の確保は長期的な課題であり、蔑ろにすると絶対後でツケがくると思っておりました。
まずは食事。母は私が帰るまで食べることを後回しにせざるを得なかったというので、なるべく3食、とってもらえるようにしました。食べることは生きること。しかし一人では労力がいるものです。母に「あんたがいないとこんなに食べてないわ」と言われながら無理矢理にでも食べさせたことを覚えています。
睡眠についてはなかなか大変でした。祖母は、一人でいることが不安だというので、常に私か母が祖母の側に付き添うことになりました。夜は私が先に寝て、3時頃起きて交代、母が寝る。昼間も横になれるタイミングがあれば交代で休むようにしました。とはいえ、いつ容態が急変するか分からないのでなかなか深くは眠れない。少しの物音で目が覚めるような状態でした。口で覚悟はしていても、やはり「その時」がくるのは少しでも先になってほしいと思ってしまうのが人の性でしょう。

自宅に帰ってきて10日目の朝。祖母は母と私が見守る中、息を引き取りました。長かったとも短かったとも、いやでもやっぱり短かった、と思う10日間。私たちは運良く、母と私ふたりで祖母の最期まで付き添うことができました。その傍らで家族を看取る、または家族を看護、介護することのしんどさを身をもって経験しました。
今振り返るとなにがしんどいかったかって「先」が見えない生活と、母の疲弊を間近で見ていたことでした。
「先」とは「終わり」のこと。来てほしくないと願っているはずなのに、ふとした瞬間に「今の生活がいつまで続くのだろう」とよぎる自分にドキッとするのです。一時的に仕事をこっちで探すべきか、しかし、いつまでいるか分からない、それよりもこのまま体力と気持ち的に余裕がない状態でも「ちゃんと」生活できるんだろうか。母と共倒れにはなるまい、と思いつつも不安は常につきまといます。
母は私から見てもいつも以上に気を張っておりました。私が先に床に着くと、祖母のベッドの横に座り会話もままならない祖母にずっと語りかけるのを聞いていました。毎晩母がすすり泣くのを聞くのは辛いものがありました。
しかしそんな話を母にするわけにもいかず、自分で言うのもなんですが、粛々と母を支えることを私の指針として日々過ごしておりました。

そんな時に私が救われたのは、話を聞いてくれる友人の存在でした。最初、あまりに私的な話を話すのは躊躇われるものではありました。しかし、自分の内に溜めていくのもまた、大きな不安でありました。そんな私の心境含め、一人の友人が「なんかあったら連絡してきていいよ!」と話を聞いてくれました。私の身内を知らない距離感だからこそ言いやすいことがあり、また話すことで自分の気持ちを整理することもできました。もし、逆の立場で、友人の家族の話、ましてや終末医療の話を聞く、と思うと、少し身構えてしまいそうになりますが、当事者としては、捌け口があるだけでどれほど心に余裕があるかを痛感しました。「こんな話してごめんー!」と謝りながら、それ以上に「聞いてくれてありがとー!」という感謝を伝えると、友人は大きく同情するわけでもなく、いつも通り「倒れないように気をつけてね」と言ってくれるのでした。
もしこれから、友人が家族のことで大変そうなことがあったら、ゆったり「話を聞くよー」と構えておこうと心に決めました。話せる場所がある、と思えるだけで息がしやすくなることがあると思うのです。
私が救われたように、私もいつかあなたを救えたら良いなと思うのです。

今回、本当に多くの方に支えられて過ごすことができました。
改めてお世話になった方々には感謝の念しかありません。
ソーシャルワーカーさんも、お医者さんも、看護師さんも、薬剤師さんも、「ひとりじゃないですからね」とそれぞれに私たちを助けてくれました。
もしこれが母だけ、もしくは私だけ、の環境だったら心身共にぼろぼろになっていたと思います。
きっと世の中には様々な事情で一人で抱えざるを得ない人は沢山いらっしゃるでしょう。そう思うと背中に冷たいものが走ります。そんな人にも誰か一人でも拠り所になる場所や人がいてくれたら。

もしかすると、その拠り所は、私であり、あなたかもしれません。

総括すると、
ほんと、大変だから!
しんどい時しんどいって言えること大事!
今頑張ってる人の心身が壊れないことを心底願います!
頑張っているあなたはすごいです!素敵です!
でも自分を犠牲にしすぎないで欲しいです!

最後までお読みくださったあなたへ感謝を込めて、終わりにします。





最後まで読んでくださってありがとうございます。