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【本のはなし】 STONER

STONER ストーナー

ジョン・ウィリアムズ/東江一紀


”美術館へ行った。腕を組んで、天井の高い展示室を巡り、絵画が反射する豊かな光の熱を浴びた。静けさとぬくもり、そして古い絵や彫刻から漂う時を超えた香気の中、ウィリアム・ストーナーは並んで歩く長身で華奢な女性への思慕がほとばしるのを感じ、体の奥に静かなる情欲が周りの壁から立ちのぼる色彩の暖気とよく似た温かくて明朗な官能の渦が湧き起こるのを感じた。”


”弁明よりも沈黙のほうが賢い処しかたとなることを祈った。”


”一九二七年春の宵、ウィリアム・ストーナーは遅い時間に帰宅した。芽吹きつつある何種もの花の香が混じり合って暖気に漂い、眠気を誘う湿った夜気の中、藪や木々の影でほのかに光る小さな木の芽に心奪われながら、ストーナーはゆっくり歩いた。”


”その日のほとんどをふたりは小さなツリーの前に坐って過ごし、おしゃべりをしたり、灯を反射する飾り物や、深緑の樅の葉蔭で埋み火のように、明滅するスパンコールを眺めたりした。”


”衝動的に机の灯を消し温かい暗がりに坐ってみた。冷たい空気で肺を満たしながら、開いた窓の方へ体を傾ける。冬の夜の静けさが聞こえ、入り込んだ繊細な蜂窩構造の雪に音が吸い込まれるのを感じ取れたような気がした。
白銀の上では何も動かない。その死の光景が音を取り込み、冷たく白の柔らかさの中に葬ると同時に、ストーナーを引き寄せ、ストーナーの意識を呼び込もうとしているようだった。
 自分が外へ外へ、白銀のほうへ引っ張られるのを感じ、視界の果てまで広がるその白銀の野の向こうに、背景としての無窮の闇を、高さも深さもない澄み切った空を思い浮かべた。一瞬、窓辺に身じろぎもせず坐る肉体から離脱し、天翔る自分になりきって、全てのもの-白い平原・木立・高い柱・夜空・はるかな星々-があまりにちっぽけで、あまりに遠く、無の中へ消え入りつつあるその眺めに驚く。と背後で放熱器が音をたてた。ストーナーは動き、景色は景色そのものに戻った。奇妙なおよび腰の安堵感とともに、机上の明かりをまたつける。読みかけの本と書類を持って、教官室を出ると、暗い廊下を歩いていき、両開きのドアから外に出た。一歩ごとに靴底が踏みしだく乾いた雪の音を意識しながら、ストーナーはゆっくり家路をたどった。”


目の前の物事をこつこつとこなす
その毎日の繰り返しが少しずつ昇華する
日常に小さな愛が萌芽する

そんなストーナーの、静なる動に心奪われます




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