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「癒し」とは傷があることで得たものが何かを知ること

もう何がその始まりだったかは忘れてしまったが、とにかく今日、その答えを得たと実感したのだ。

私のとって「傷」は自分には価値がないと自動的に思考が働くこと。
そのような思考になるとき、どこにどのような傷をつけるのか?
感情的には「怒り」「悲しみ」身体的には軽いと「耳鳴り」「便秘」「呼吸が浅い」「太る」重くなると「膀胱炎」「全身の倦怠感」という状態になる。

自分には価値がないという思考を発動させることで与えられた、与えられるだろう役割を拒絶することができる。丁寧にその状態を思い浮かべる。するとそこには自分には〇〇という価値があるということを誰かに認めさせたい、誰かにその価値を気づいてもらいたいという思いが隠れているじゃないかっ。

何でこの人は分からないんだろうか。私はあなたのことに関心をもって接しているのに、なぜあなたは私の考えに関心を寄せないんだろうか。はぁ、こどもの頃からこの類がすべてストレスになっていたんだろう。ただ、これにたどり着いてようやく理解した。

《なぜ私はこんなにも人間関係について探究・探求心があるのか》

それは、大いなる力に近づくために《愛》《真理》《調和》=幸せについて学んでいるからだ。そしてこれは私だけじゃなくどの魂もみんなここにたどり着くとな。それならどんな人も潜在的に(無意識下にあっても)同じ課題に向かっていろんなやり方で幸せとはを学んでいるってことやん。
やり方が違ったり、感じ方、考え方(価値観)は違っているだけで、おなじやん。分かり合えん、分かってもらえないなんて思うこと自体、幻想であり、苦しい状況を自分で生み出しているだけでだ。
ただ、こんな非効率なこの世界もきっとすでに調和しているんだろうな、と思うとなぜか力が湧いてきた。

《なぜ私はこんなにも人間関係について探究・探求心があるのか》

なぜならこれが私の使命だからだろう。
どの過去生もきっとその時の価値観で探究・探求していたのだと思う。
そして経験することでより広く深い視野で物事を理解しているだろうから、今日の私は魂至上一番賢く、美しいのだろう。

ここまで考察し、書き出して、すでに冒頭書いた「傷」がどんな傷だったか思い出せなくなっているのが可笑しい。

「傷」は本来心が求めているものに気づくための単なるきっかけにしか過ぎないな。



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