復帰70チャレンジ その4「北部琉球とは何ぞや?」

さて、前回は何とも言い難い米国側のうっかりにより奄美群島は沖縄(琉球)文化圏に違いない、と断定されてしまった所までを述べましたが
我々側でも、この勘違いについて「米国は誤った認識を持っている」と気がついた人が居ました。
過去に何度か投稿している情報なので、ご存じの方もいることでしょう。
旧日本帝国陸軍少将、高田利貞氏です。

私が最初に取り上げたのは2016年ごろと思われますが、そのあとちょくちょく調べられた方も居るようです。
noteにも終戦前の奄美がどのような戦況であったのかを詳しく書かれている方が居たので、下記リンク先でご確認下さい。

さてその高田利貞少将が、アメリカ側の誤解に抗議したのは昭和20年9月22日。
武装解除指令文書への署名に応じる際の事でした。

文書の英文に「Nothern Ryukyu」という見たこともない英語の地名が記された文章を読んだ高田少将は、2時間半の抗議を行い、なんとか「north of Okinawa to 30° north latitude(沖縄の北方北緯三十度)までの諸島」と手書き修正されるに至りました。

が、この「英語表記は“Nothern Ryukyu”、翻訳する時の日本語表記では北部南西諸島」という謎の呼称は、この後も度々登場するようになります。

というか実は現在でもこうなっておりまして。

https://www.teikokushoin.co.jp/junior/faq/detail/102/  より

奄美群島に住む我々は中国が「琉球諸島は我らに帰属する」と主張しても「でも奄美は入ってないし」と呑気に思いがちですが上記の

日本の南西諸島は「Nansei Shoto(Ryukyu Islands)」と表記されています。

https://www.teikokushoin.co.jp/junior/faq/detail/102/

という一文を読むと、やっと令和の時代に生きている自分たちにも関わりのあることだという認識が生まれるのではないでしょうか。

参考:
『外交史料館報』第30号(2017年3月)
高田利貞「奄美群島ノ戦後処理ニ就テ」(原口邦紘)

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