見出し画像

「聡子の帰国」(小林かをるさん)を力いっぱい読んでみた(③ まだ書いてる)

対「聡子」としては、100%被害者。

対「昭」としては・・・うん、加害者・・・。

どちらも「聡子」が帰国しなければ起こらなかったので、「困ったひとが帰ってきちゃったなあ・・・」という話で、実際主人公の名前が「小林かをる」(苗字は、父親が小林熊次郎であること、名前は終盤「聡子」に呼ばれることで判明する)ですから、エッセイあるいは事実にある程度即したもの、として読むなら、たぶん(グラデーションはあっても)「「私」(いろんな意味で)、がんばれよ」に収斂すると思うのですが。

「私」と作者の小林かをるさんを完全な別人、創作として考えると、「語り手」としての私の悪意を痛切に感じます。(野良ジャッジとして、先行して批評されていた大滝さんの「邪悪さ」は言いえて妙だと思いました)

聡子は、もし彼女が留学を諦めていれば被らなかったであろう不利益が生じた人々を一切かえりみるそぶりはみせませんし、会話の中だけでもほぼすべてのひとを踏みつけています。ただ、書かれている事実だけを抜いていくと、「私」が聡子によって受けた不利益は、今現在、連れ合いを侮辱(と私は受け取りますが)されただけです。ですが、ストーリが―が進むにつれ、「私」と踏みつけられた被害者たちが重層的に重なっていき、「こみあげてくるもの」としてあがる、涙・吐き気・体液・シラミの大群という描写によって、「私」が被害者全員と融合し、全員の苦しみの象徴としての「私」がたちあがってきます。

もちろん、小説の形としてこちらがよい・悪いといったことではなくて、読み手として私は「私」がこのような形で、ひとの言葉を使って自分を被害者として演出するのが嫌です。ひとの苦しみを自分の苦しみを肯定・強化するために使う狡さ、と解釈するか。(最初、こちらで解釈して、「私」のスタンスに対する悔しさをTwitterにぶちまけたりしました。申し訳なかった)もしくはたくさんのひとの苦しみを一手に表現させられて自分がきえてしまった、主張しない女/ひととしてキメラのようになってしまった、と解釈するか。どちらにしても、ひとりの女/ひととしての「私」は物語がすすむにつれて希薄になってしまう。差し込まれる「このままアパートにつかなければいいのに」という「私」の一個人としての感想がぽかりと浮いてみえるくらいに、「私」の物語が消えてしまう。タイトルは「聡子の帰国」ではありますが、これは聡子を語る「私」と、読者である私とが対面する話のはずです。私は、「私」の話をもっとききたい。「私」の気持ち、「私」がどう感じたのか、どうしたいのかがきける読み方がしたいです。