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絵と私について(または好き嫌いの許可について)

やっと絵の好き嫌いがわかるようになった。
と、美術のことを人に話すときによく言っている。

たくさん見ていくうちに、やっと「自分はよそ者」という卑屈さを捨てることを自分に許せるようになって、「好き、嫌い」と思っていいんだ、とふと身軽になるときが、何回めかの美術展でふと生まれる。それは思い返せば演劇もそうで、集中して観続けた何ヶ月かで急激にそのスタートラインまでを駆け抜けたことがあったし、物心つく前から生活の中にあった音楽(実家がピアノ教室なんです)は、好き嫌いが芽生えたのも物心がつくのとほとんど時間差がなかったような気がして覚えていないけれど、それだけの絶対量の音楽を浴びさせてもらっていたということなのだろう。

もっともっと好き嫌いを思うままに言えるようになりたいものはたくさんある。同じ曲を奏でる違う演奏家について。ダンスについて。ファッション。お酒の味。もっとある。たぶん際限なくある。

思えば、私の知らないものに対して好き嫌いを自在に言える人に出会うたびに、憧れたり、その背中を目で追ったり、嫉妬して見ないようにしたり、そういうことを数え切れないほど、無意識のうちにし続けてきた気がするのだ。

好き嫌いを言えるものの世界の小ささに愕然として、はやく、もっと、いつかは、と春の始まりのようにもどかしく思い続けている。この気持ちは、もっと歳をとっていくにつれて、夏みたいに秋みたいに、冬みたいになっていくのだろうか。それとも、死ぬまで春みたいなんだろうか。

追記
そうそう、だから卒論にフェルメールを書くんですよね。全然アウェイな美術の世界で、それでも好き、ただ綺麗だから好き、と思えた画家だったから。先生は、「好きな絵があって、その絵がなぜ好きなのか、だれにでもわかるように言語化できたら、それだけで卒論になる」って言うんです。それから、「美術史を学んで社会に出て何に役立つか訊かれたら、『綺麗なものを知ってます』って言える」って。そういうところすごく気に入っています、自分の専攻の健全さを。

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