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傷のない璧

書こう書こうと思ってnoteを開かないうちにかなり時間が経った。

書きたいことはあるのに、一旦習慣がなくなると文章を書くことがどうであったか恐ろしいほどすぐに忘れてしまう。

やっぱり私はまだ完璧主義に囚われてるなあ。誰も完璧な私なんて求めてはいないと分かっているのに、どうしても小さな傷が致命傷であるかのように思えてしまう。その時応急処置しとけばいいのに、放っておくから余計に広がって、結局大きな痣になってしまった傷がいくつもある。


最近留学から帰ってきて、親戚や友達と久しぶりに会って驚いたこと。
「noteの更新止まっちゃってガッカリだったよ〜。」のひとこと。

私が文章を書かなくなったぐらいで誰も気にしないだろうぐらいの気持ちでいたから、ちょっと意外だった。その言葉は全くプレッシャーには感じなくて、むしろ「あなたの文章面白いね」よりも「続けて欲しかった」という言葉には重みがあって有り難いと思った。

大したことをしているわけではないし、大袈裟に書くつもりはないけど、自分の中であった発見だから書き残しておきます。


そう、完璧ね。ずっと「完壁」だと思ってたのが高校の漢文で間違いに気付いて衝撃だったな。今でも壁のイメージが強すぎて、書くときにわざわざググってしまうほど自信がないこの熟語。

"「璧」は玉のことで、璧を全うする(完全に守る)こと、転じて、少しのきずもない玉、完全無欠なもの" (日本大百科全書)

語源の話を改めて読んで思ったのは、「傷がないことがそんなに大事か?」ってこと。

この話は藺相如の機転の利いた立ち回りが面白いところなのに、「傷ひとつつけなかった」部分が強調されている気がする。じゃあ藺相如が帰り道でちょっとお茶目に転んで璧に傷が入ったら彼はどうなったの?なんてどうしようもないことを考えてしまう。

私が恵文王だったら、仮に璧に傷が入っていたとして、大切なものを失う最悪を避けただけよかったと思うかなあ。(あとそもそも傷つくのが怖いほど高価なものは持ちたくない)


こんな感じで、私は物とか他人に対しては完璧を求めないし、完璧なんて不可能だと思う。それなのに、自分のことになるとどうも客観的になれない。

まだ未熟な自分を曝け出す勇気がないだけなのかもしれない。でも結局他人の助けを得て成長していくのは、自分の弱点を恐れずに見せられる人なんだろうな。

私の璧はすでに傷だらけだけど、それも味だといつか思えるようになりたい。


とりあえずは、ここ数ヶ月海外で体験したこととか留学前の海外経験について振り返って書きたいなと思っているのでよかったらまた覗いてみてくださいね。


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