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あえて「形なきもの」を

あえて「形なきもの」を
残していきたいなあ、と思っている。

いや、これは、
自分の「名前」とか
「評判」とかもそうだし、
あとは、
人々の間に残る「記憶」とかもまた
実はこれらすべて
「形あるもの」のほうに含まれると思うから、
「そうじゃないもの」
(「それですらないもの」)を
残したい。

つまり、それらは
「形ある生物という存在」があってこそ
成り立つようなものだから。
――たとえそこに
いずれ誰も全くいなくなったって、
(――って、これはまあ、
「極端な喩え」かもしれないけど、
でも、わかりやすく言うなら、)
「何らかの生物の記憶」すらも
介在しなくたって、
残っていくようなものを、
残していきたいなあ、と思っている。


そう。

どんなにか大きな「名声」だって、
少しずつ薄れる。

――2000年後には、いずれも、
ほぼ「ない」に等しくなっているかもしれない。


それでも、
(どんなにか時が、
――たとえ幾千万年が過ぎても、)
「なくならないもの」って
あると思う。

それは
「形を持たぬまま」で。

でも不思議と、
形ある「人から人へと」も
「生物から生物へと」もまた、
リレーするかのように、
伝わってもいくものだと思う。

――「形あるもの」として今はまだ、
「現世に」存在してしまっている、
そんな我々であるからして。

「そういう形でしか、
とりあえずは、残していけない」
ということも、
それはあるのだけれど。



一言で言うなら。

たとえば、
「美しいもの」、かなあ。

何て言うか、とにかく、
「美しいもの」を
自分も残していきたい。
(冒頭の話に戻れば、
その時、残していくそこに
「自分の姿かたち」は、
別に要らないということ。)



――この人の残したものは
「美しいもの」だったなあ。


「旅立ったのは、桜の季節だった。」
なんて、
あとから思い出すかもなあ。



2000年後はさすがに
「人類」も消えて、
すると
「人々の間の記憶」も
跡形も残しようもなく、消えて、
と、なれば、
たとえば、
「概念としての音楽」なんかも
そこにはもう
消えてしまっているかもしれないけど。

しかし。

この人の残した「美しいもの」は、
その時にすらも、
「形ない粒子」となって、
時の流れをどこまでもリレーして、
「宇宙単位の記憶」として、
ちゃんと、
伝わって、
残っていくような気がしている。


(漠然としている上に
何だか飛躍した話ばかりで、
今回はスミマセン。)

(でも、今はそんな気持ちです。)