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【仕事編・映像制作会社②】 0ポイントと出会う旅

家を出ようとしたタイミングで大雨になった。
歩くと体が整って調子がよいので歩きたいが、あきらめよう。
踊ろう。
部屋の中で軽快な曲をかけてズンダカズンダカ踊った。

前回は、映像制作会社に転職し、出向で地方局のテレビ番組のタイムキーパーをしたことを書いた。

「苦しい」どころか、息切れしていた。
「ムリだ〜〜〜」ってなっていた。
上がってくる。息が。呼吸していたんだろうか、っていうくらい。

なにがそんなに「ムリだ〜〜〜」だったのか。
・失敗の許されない生放送番組
・それゆえ、番組を指揮するディレクターの指令が怒号のように鋭く厳しかった
・それゆえ、全員が常に緊張している 取材班も時間に間に合うようにVTRを入れなきゃいけない、お天気お姉さんはアナウンサーは間違って伝えないように正確に言うように
・それゆえ、画面を変えていくスイッチャーもディレクターの指令に敏感
(これらぜんぶ、当たり前か)

たぶん、わたしが素人だから、もっと経験を積んでいけば、慣れてきていろんな面が見えてきたのかもしれない。
番組を全員で成功させていこう!という気概みたいなものに悦びが湧くようになったのかもしれない。

でもわたしにそれは訪れなかった。
悦び、はやってこなかった。
それどころか、気概は最初の頃から徐々に削がれていった。

その日はニュースが盛り沢山でタイムスケジュールがどうやっても尺に収まらない。
どこを削っていいのか。
居合わせるディレクターはわたしの何百倍も忙しそうだし殺気立っているし近づけない。
ザザザザザっと人が入ってきた。取材班だ。ニュースのVTRだ。
大きな事件が早朝に起きたのだ。取材班は飛んでいって映像を撮ってきた。
これを今から番組に入れるように編集に入る。
「何分?」「タイトルは?」「予定のニュースの前に入れて」「トップ変えて」
様々な指示が飛ぶ。
テロップの書き直しの指示が頭の上を飛び交っている。
大学生のアルバイト生はテロップを無言で打ち込んでいる。
わたしもまた、そのVTRをタイムスケジュールに入れ込まなければならない。
本番まであと何分。
先にアナウンサーは位置に着いて。
原稿の差し替えは。ニュースの順番は。
打ち合わせは終わらない。
なだれ込むように放送室に皆がドッと入っていく。
はい、本番45秒前。
ストップウォッチを押して、引いたり足したり、時間の計算が始まる。

自分で「判断して」「ぬかりなく」「タイミングを図り」「本番に間に合わせる、進める」「失敗は許されない」
みたいなことが無言の「集団の輪っか」として立ち上がっている。

わたしにとってはそういう現場だった。

自分の中にそういった「集団の輪っか」が立ち上がっていると、それに「沿っていこう」というベクトルが発生する。
これは、わたし以外の人はそうじゃないかもしれないし、わからないが。

「この番組を成功させること」が絶対的。
「この番組を成功させること」そこに向かって伸びている「沿っていく線」。
その線から外れた瞬間、「ダメ」を押されても、怒号が飛んできても、当然、という免罪符にさえなっているような。

こう書いてみて、当たり前だな、とも思う。
番組を全員で作っている。
全員で「この番組を成功させること」が、目標で、絶対で、当たり前だ。

だから、わたしは、自分を責めた。

「当たり前」は、わたしに食い込んできて、
まるで自分自身から監視の目を向けられているような状態になっていく。


もしかしたら、シェアできていたらどうだったろう。
例えば、「生放送ってけっこう大変ですね」とか。
何気ない正直な感覚。

新たに開局した地方局で、そこは、全国バラバラなところから人が集まっていて、
局が違えば進行の差もあっただろう。
何気ない、例えば部屋の使い方や、弁当の発注や、技術の違いや、略語の違いや、アルバイトの人数や。
バラバラなところで経験を積んできていた人たちがあちこちからバラバラに集まっていた。
テレビ番組をつくる、という点では同じだから、細かい点は無視されそうなものだけど、そうでもないような気がした。
ちょっとしたことが聞きづらい。
あれ?これはわたしが知らないだけで業界では当然なのかな?とか。
細かいことが通じてないから訂正が多くなったり。
特にわたしは局の社員ではなく、映像制作会社からの出向だったから、その番組の時間以外はなにかを共有する機会がない。

そういう集団にあって、失敗のできない生放送番組で、ひとりひとりが頼りにしているのは、自分でもなく他者でもなく、「この番組を成功させること」。
ひとりひとりの有機的自律運動は「この番組を成功させること」に「沿っている線」に収斂してはたらいていく。


ひとりひとりの0ポイントは、はるか銀河系の果てよりも遠く。見えない。


監視塔の灯が明るすぎて、わたしの目はつぶれている。
隣の人も霞んで見えない。
塔の灯りの下では、わたし自身のことも、透明になっていて見えない。
ストップウォッチが、時間が、いつもわたしの背後に張り付いている、感覚だけが迫ってくる。

あるひとつの「沿っていく線」が強すぎると、他は影になって暗闇になる。
わたしは眩しさに目がつぶれながら真っ暗な中を手探りで這っているような毎日だった。

有機的自律運動は、粒とつながり線は、星座になる前に、滅んでいった。毎日。
粒とつながり線の残骸が積もってわたしは埋もれていた。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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