見出し画像

【仕事編・コーヒーカウンター② わたしにちょうどいい具合】 0ポイントと出会う旅

前回は、「居られた」働く現場の記述をした。
わたしにとって「居られる」は、かなり重要なのだ、と【仕事編】を書いていくうちに思えてきた。

そして
「居られる」は、
わたしの有機的自律運動のはたらきが十分に発揮される場であることにも思い至っている。

そして

もしかしたらわたしは「刺激の素」に反応しやすく、
故に、拾いやすく、応答に走り出しやすく
故に、なにか「唯一で強力な集団の輪っか」があると、応答しやすいが為に夢中で拾っているうちに「沿っていく」方向に走っている。
故に、「集団の輪っか」>「個人の0ポイント」という構図に陥りやすい。
と、言えそうな気がしてきている。


犬が音の方に向くように
猫が気配の方に向くように
捕らえられたように
刺激の素と全身が向き合う

例えば
救急車の音
人の速い動き
人の表情の微細な変化
塀の上の猫の気配
カラスの動き表情

情報に優劣はなく、等しく、体が向き合う現象


一方で、よくわからなくもなる。
相反する現象も起きているから。

距離がズレると反応しているように見えない。遠くに行ったようになる。

どういうことかというと、

保育園の時は特に顕著だったが、今、目の前の他の園児たちが動きが速くて激しいと、応答の速度と量が追いつけないのか、わたし自身がその場から外れていってしまう。
外れよう、と思っているわけではない。
外れている。

また小学校からの学生時代は、窓の外の景色に体全部が向いていている。
今、目の前の教科書や黒板や生徒や先生や廊下のことは入ってこなくなる。

まるで、刺激の素に反応できていない、みたいな状態だ。
最初に書いたような自分とは、真逆のように見える。

しかし、真逆のことが起きている、わけではないかもしれない。

今ここ、じゃないところに「刺激の素」が置き換わっているから、
と言えるかもしれないから。

「今ここ」の刺激の素に反応するはずのわたしの体が
遠くの、山、光、風、雲、鳥、なんかに、反応しているとき。

「今ここ」は刺激の素がありながらわたしの体は「拾う」に至らない。
それは、遠くの、山や光や風や雲や鳥やなんかの方が、わたしの有機的自律運動のはたらきに矛盾がないからではないか。

言い方を変えてみると
チャンネルが「今ここ」の刺激の素に比べ
遠くの山や光や風や雲や鳥に合いやすい、のではないか。

自然としているとわたしはそっちに合いやすいとしたら、
授業を聞けないのもあながち、わたしのせいでも、先生のせいでも、ないのかもしれない。
ただ、そういう、身体なのだ。

もちろん非常ベルが鳴りでもすればそれに一気に反応はするし、休み時間のベルが鳴れば一瞬でブランコが思い浮かぶし。
(ブランコはわたしの好きな遊具)

寝ているわけではないし、反応する体は持っている。

ただ、
より山や光や風や雲や鳥に応答のチャンネルが合いやすい
というだけなのかもしれないのだ。

前回のコーヒースタンドでの「居られる」現象も
わたしの身体が有機的自律運動にはたらきやすい条件下、だからこそ叶っている、とも言える。

これは個人差がありそう。
刺激の素と個体である個人の受容体との、応答、やりとりの具合というのか、そういうものがあって
同じ環境、集団、であっても、個人の中に現れてくる現象に違いが自ずと出てくるのではないか。

それを、わたしじゃない人から見れば
「人の中に入って一緒に遊べない」
「授業に集中できない」
「ボーッとしている」
「おとなしい」
みたいな見え方になるんじゃないだろうか。

実際、上記のことは先生に言われたり通信簿に書かれたり大人に言われたりしたことだ。

当時は、なんか、なーんか、納得いかなかったんだ。そういう言われ方。
おとなしくはないし。
ボーッとしてるつもりないし。
先生の話は聞くつもりあっても聞こえなくなるし。
授業に集中したくてもそれ以上にわたしを動かすものがあるし。

ボーッとしてるというより、むしろ、めちゃ、忙しい。
忙しい、というか、十分、はたらいている、まっ只中なのだ。
有機的自律運動のはたらきの中にあって、体が同期しているから、他のことは割り込んでこれない。
だから、大人からの言われようには納得いかなかったのではないか。
ぜんぜん、サボってないのだ。
むしろ、自分という個体が、環境の中で十分に有機的自律運動にはたらいているのだ。


例えば、
そんな状態じゃ、会社で働いているとは言えないじゃないか、
と言われそうな環境下にわたしが居るとする。
「有機的自律運動で忙しいです」と言ってみたところで誰にも伝わらない。

そういう時、わたしの刺激の素に対する応答が、ギアが入るというか
過敏になる、とも考えられる。

「集団の輪っか」に添えてない現状にある時、「沿わなきゃ」という強制力が働くが故に起きている現象かもしれない。
今回の最初の方に書いた下記のような現象が起きるかもしれない。

もしかしたらわたしは「刺激の素」に反応しやすく、
故に、拾いやすく、応答に走り出しやすく
故に、なにか「唯一で強力な集団の輪っか」があると、応答しやすいが為に夢中で拾っているうちに「沿っていく」方向に走っている。
故に、「集団の輪っか」>「個人の0ポイント」という構図に陥りやすい。
と、言えそうな気がしてきている。


元々、
反応しやすい刺激の素が、わたしは他の人とは少し違う、のかもしれない、ことも言えるかもしれない。
刺激の素の状態とか、大きさとか、強さとか、性質とか。
例えば犬は、人間よりもより音に反応しやすいでしょう。
ミツバチは花の蜜により反応しやすいでしょう。
カメレオンは色により反応しやすいでしょう。
フクロウは木肌により反応しやすいでしょう。

少しの差なんだけど、この差は見えないが故に、集団の中で見逃され続け
差なんてないんだ、みたいな上での環境が出来上がるし
差がない上での集団の輪っかが形成されもするだろう。
そうなってくると、少しの差は、無視していい「小さな差」どころか、個体としての個人の有機的自律運動を阻害すらする「大きな差」になってきさえするかもしれない。

だから、わざわざ、わたしは他の個体との「差」を、明文化しなくてはならない事態に至る。
明文化できなければ自分の中だけでコストを消化することに追われるかもしれない。

十分に有機的自律運動のはたらきの中にあれれば、そんなコストはかかってこない。

言い換えれば、
少しの差も、集団において見逃され続ければ、その集団に居ようとする個人においては常にコストが内在化されるかもしれないということ。


例えば前回記述したコーヒースタンドでの働く経験、居られる経験。
あの環境と集団と個体である自分との間で起きる有機的自律運動は、わたしに丁度よかった。
けれど、あれが苦痛に感じる人もいると思うんだよね。
社の中で一人外れ者、みたいな立ち位置は落ち着かない人とか、コーヒーをゆっくり淹れるのが待てなくて苦痛とか、社の人との関係性がフラットすぎるのがやりにくいとか。

・今目の前の刺激の素に反応するとは限らない。フィットしやすい応答の方により反応していく
・集団の輪っかに沿う強制力が強くなれば刺激の素への反応が過敏になる可能性
・刺激の素の応答の元々の個人差
・集団において差が見えなくなると沿っていくコストが個人に内在化される可能性

など、仮説が上がってきた。

また、これらは、都度、変化しているだろうと予測できる。



※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?