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0ポイント発見の糸口は?

前回は、「集団の輪っか」と「個人の0ポイント」との兼ね合いについて、わたしの事例を交えて説明してみた。

前回の最後に「じゃ、0ポイントを発見できるのはどんな時?」という問いが出てきた。

そのまえに、0ポイントは、どんな状態にある時に意識できるといいんだろう。

集団の輪っかとそれほどズレがない状態にある人にとっては、あんまり重要じゃないかもしれないね。
集団の輪っかも自分の0ポイントも意識にものぼってこない。
それで日常は十分回っている状況。

集団の輪っかと自分の0ポイントがそれほどズレていない状態


それよりも、こんな状態にある時 ↓

そこにはわたしなりの事情があった。
なのに、うまく言語化できないから、ううう、となってわたしの背景に退いていく。

今おもうのは
この、「ううう」こそが、大事だったのだ。

他の人が使いやすい、一般に流通している言葉だけでは間に合っていなかった。
「ううう」を表現できていなかった。
ことこ・ざわり

「ううう」…
というような、やむにやまれぬ感じ、

言語化できない、苦しい、しんどい、辛い、
集団の輪っかとズレているから現れているしんどさ、
なのに誰にも伝えられない、

「伝えられない」ことがしんどさにつながっている、
それが0ポイントの発見を歓迎する状態じゃないかな。

自分の0ポイントを見失っている状態

集団の輪っかと自分の0ポイントにズレがあるのに、それに気がつけていなくて、無意識にズレを埋める事にコストがかかっている状態。
0ポイントがやってこないから意志を発動しようとするコストがかかっている状態。
結果、自分の0ポイントを見失ったまま、ますます0ポイントから遠ざかっていく状態。

集団の輪っかとズレがある状態
自分の0 ポイントがますます見えない状態

その状態は、日々積み上がっていくと大変で、
理由はわからないのに疲れていたり、原因がわからないことで自分を責めることになったり、説明できないから他者を説得できなくっていつのまにか弱い立場に陥っていたり。

まさに「ううう」「ううう」「ううう」…

うーうーうー うーうーうー うー

悪循環はさらにあって、
・集団の輪っかとそれほどズレていない0ポイントの時
・集団の輪っかとズレがあるのに自分の0ポイントは見失っていて、集団の輪っかに沿っていこうとしている時

このふたつは、他者から見たら区別がつかない。
どちらも集団の輪っかに沿えているよう見えるから。
はたからは、集団の輪っかとズレていてしんどいことがわからない、しんどさが見えない、ということ。

他者からは見えないことを説明することにはコストがかかってくるという…。

意外とむずかしいんじゃないかな、他者にわかってもらうための説明って。
自分と違う人に、自分の内側の体験をわかるように説明するって。
「説明してほしい」と言われたとしてもできないかもしれないし、「説明してほしい」といわれなければ一層、説明するのはむずかしい。まず興味関心をもってもらうコストがかかるから。

そうすると、いよいよ集団の輪っかとのズレをなくそうとする方向に意識が向かっていってしまうのは、当たり前かもしれないね。


今回はここまでだけど
次回は、0ポイントへの迫り方が説明できるかな。

どうだろう。

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