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あるのに「見えない」

わたしは30回ほど転職していて、そのことは、自分を貶めた。
「続ける力がない」「途中で投げだす」「中途半端」「ひとつのことを極められない」「責任感がない」など、いくらでも貶める言葉が追いかけてくる。

幼少期から「続けられない」の傾向はあって、そろばん塾や絵の教室は、自分から行きたいと言ったのに行けなくなった。

だが、そこにはわたしなりの事情があった。
なのに、うまく言語化できないから、ううう、となってわたしの背景に退いていく。

今おもうのは
この、「ううう」こそが、大事だったのだ。

他の人が使いやすい、一般に流通している言葉だけでは間に合っていなかった。
「ううう」を表現できていなかった。

足りてない!

表現できなければ、わたしの大事な側面は、自分でも見えなくなっちゃう。背後に退き、誰にも発見されず、「ううう」「ううう」うめいている……

ホラーだ……

ううう


寄り道で〜す 🌱
そういえば、幼少の頃、保育園に通い出した頃でした、
夜寝る時に母親に「怖い話して」と毎日ねだっておりました。
その頃は毎晩、怖い夢を見ていた時期でした。
「怖い話」「怖い夢」は、わたしにとってどのような意味があったのか…

大人になってから、再び怖いものに惹かれたのは、映画でした。
吸血鬼の映画は、テレビ放送を家族と見ていても怖すぎて見れなかったのに、大人になってから見たあの映画たちは、わたしを救ってくれていた。

原作がスティーヴン・キングの映画
デビット・クローネンバーグ監督の映画
に特に救われた。
映画については、別に書いてみようと思っている。

「ううう」は、他者と共有できにくいから「ううう」なのであり
しかし「昔話」「夢」「映画」らは、そんな届きにくい所にこそメタファー的に「ううう」に迫ってくれた。感謝している。

わたしが話が飛躍しやすいのも、抽象的なのも、そこら辺りの事情と関係していると思う。
「ううう」と「わたしに起きている現実」の間を埋める言葉が足りていないように思う。

「ううう」に、わたしなりの言語を与えてやろう。
「ううう」を救い出してやろう。
背景に退かせている場合ではない。

うーうーおー


どうしてこのような「ううう」現象が起きるのか。
今回は「集団の0ポイント」にまで行きつかなかったが、次回は行けるだろうか。

どうだろうか。

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