内的現実の現れを出る前に消さない
昨晩から続く雨で「暗い」が残る朝です。
いつものカフェが翳っていて落ち着きます。
「粒と星座」を、いろんな人の前に出してみたかった。ずっと。
でも、この10年、わたしの「ううう」に伴走してきてくれたかけがえのないものだから、相手にされないのがこわかった。
この10年より前の、40年くらいの「ううう」の上に現れている言葉だから、なおさらのこと。
「粒と星座はもういい」
と、実際に言われたこともある。わたしは諦めきれなかったのである。そのように事もなげに流される事に、諦めきれなかった。
ひとりよがりで主観的すぎる、科学的根拠のない言葉は、無意味なのか。
そうじゃないと思う。
まずは自分が自分と話す言葉は、この世界に自分がかき消されないためにはなくてはならない。
人に通じるかと聞かれれば、人それぞれの経験の違いを考えると、通じる方が稀かもしれない。
だったら、黙るか?
嫌。否。
主観・妄想でも構わなくないか?
わたしにとっての現実を、掬えるのは、先ずはわたしという身体だ。
先ず、の身体であるわたしが、わたしの内側に起きていることを掬う。
人に掬い上げられる経験がなければ、それはきっとたいへんむずかしいことだ。
掬い上げるむずかしさは極まっていく。
どうしたらいいんだろう。
わたしに起きていたことは、ぜんぶ、なかったことになるのか。
掬い上げられない経験は、粒は、つながり線は、どこにも行き着かないのだろうか。
だから、出してみる。
ひとりよがりな主観的な言葉でも、それを使ってわたしの経験が、内的現実が、現れるなら、出してみる。
これを使って、掬い上げられるかどうか、試してみる。
※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな、主観の言葉です。
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