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ぜんぶ、わたしの欠片

わたしの立ち位置、視座

カメラはわたしと同じ視点に立っている
なのに、わたしが見えているものとは少し違うものを見せてくれる
わたしは、わたしが見えているものを自分で確認することはできない、不可能
わたしと同じ視点に立ってくれるのはカメラ
そのカメラと、え、こんなふうに見えてるの?わたしとちょっと違う、違うけど、わたしにつきあってくれる、そしてちょっと目に写る映り方が違う。あ、そんな感じに映ってるんだ、

と、話している
それが、わたしの「撮影」という行為
「撮影」 影を撮っている
「影」とは、なんの、影なのか?
被写体の? いや、撮影者の影なのではないか
カメラはくっついてくる
もしくは、わたしがカメラにくっついていく
運ぶのは、わたしという移動できる個体
カメラは自分じゃ移動できない(ドローンさえ)
わたしが、あ、っとなった時、なった場、なったタイミングにカメラは焦点を合わせてくる、追いかけて重なってくる
どうだった? うん、捕まえられたと思う
どれどれ そんな話をする
わたし、だけが撮っているわけじゃないけど、カメラと一緒に撮ってるけど、カメラのおかげで、わたしはわたしの欠片を見ることができる
カメラの視点の混ざった、わたしの欠片

欠片は、カメラで撮らなくても無数にある
わたしの目の前にやってくるものぜんぶ、世界だ
世界のほんの欠片しか、わたしは捉えられていない
だから、わたしが接する見えるものも、触るものも、感じるものも、ほんの欠片だ
常に、いつも、いつまでも、どこまでも
ほんの欠片が積み重なって、「わたし」という「今」を象っている
だから、時々に捕らえられた「目の前の今」は、やっぱり、わたしを象っている欠片に違いない
ぜんぶ、わたしの欠片

じゃ、全員、そうじゃないか、と言われればその通りだ
写真を撮るということは、全員、同じことをしている
たまたま、目の前にあるものを、採集している、それが積み重なってそれぞれの「わたし」が象られている

しかし、誰と一緒に?という問いに対しては、どうだろう
カメラ、と、一緒になのか?
見えない誰か、と一緒なのか?

集団の輪っかから自由になることはできない
誰もが集団の輪っかの中にある

集団の輪っかに両足を突っ込んだままなら、目の前の現実は集団の輪っかの中に現れているものしか映らない

あたりまえのはなし

でも、ごく僅か、集団の輪っかから外れることができる時がある
そのひとつが、わたしにとってはカメラと一緒にいるとき

一人でいる時よりも、それは極まる

周りは目に入らなくなるし、意識から外れていく
目の前のものをカメラと共に、どこに、わたしが惹かれたのかを、視座を変えて観察している
カメラは、なんにも言わず、ずっとそれにつきあってくれる

わたしだけ、では、わたしは、わたしひとりっきり、に成ることができない

わたしには集団の輪っかが、網の目のように入り込んでいるから 無数に
そこから解放されることはない

カメラがあると、「集団の輪っかから外れる」が、起きる

そこにはカメラとわたししかない
わたしだけ、でもない
カメラとわたしが、目の前に起きていることについて、あっちからこっちから伺っている
そして、シャッターが下りるポイントが現れてくる
それは常に実験で、写ってくれているかどうかは、誰も知らない

目の前に、椅子とテーブルが現れた
それは、ごく見慣れた、自分の住む町の商店街の、外に出ているテーブル席だ

これは、集団の輪っかで見た時の視座

わたしには、モンヤリしてるものが現れた、なのだ
椅子とテーブル、いつもの商店街、飲み屋、若い人、夜、みたいな記号は、スッと背後に退く
現れているのは、モンヤリだ

それを、モンヤリのまんま、掬い取れたらいいのにな、と、
そのまま、そのままでどうか、と、祈るような想いで
ごく繊細に大胆に、ごく慎重にそっけなく

シャッターが下りるポイントがやってくれば、シャッターはおりる
これも、本当のところ、わたしの意志とは言えない
問いかけでしかないのだ
シャッターを切ったら、果たしてそれは立ち現れるだろうか、という問いかけ

果たしてわたしは何を見た? あなたはなあに? という問いかけ

その時点で、モンヤリが写ってくれているかどうかという現実は、わたしの範疇には存在しない
わたしはそこに居て触れてはいるけれど、わたしの外にある

すべて、有機的自立運動のままなのだ

わたしが一瞬、その場に入り込んだ
ずうずうしい

思いのままに撮ってなんかいない
すべて、有機的自立運動のまま、その中にわたしはあるし、カメラも写真も日々も人生も世界もある

意味よりも、「はたらき」が先にある

え、なんだ? という一瞬の気がかり
気になる、知りたい、を誘発する星座の手前にあるつながり線みたいな
ふわっとやってくるつながり線が、どこから来たのか、どこへ向かおうとしているのか、知ることはできないのに、わたしは気になり、知りたくなり、愛しい気持ちが湧いてくる
それは、どことつながっているのか、どこへつながっていくのか、明白になることはないかもしれないが、とにかくそんなふうにわたしは世界の中にある、ということは言えそう

この、依るべない「わたし」という現れをしている「今」「瞬間」に、カメラ、というのは、なんと似つかわしいのだろう

それぞれの違いのあるカメラが、その違いのまま、わたしと一緒に立ってくれる

重い子、小さい子、軽い子、わたしの目を離れて自由な子、しっかり者の子、いい加減な子、できることが狭い子、繊細な目の子

身体が違えば、見え方(拾い方)も違う

それぞれの違いがあるから、ある時、ある場、その先の現れに違いがでる

それはわたしに心もとなさと悦びをもたらす
なんて、わくわくするんだろう


※ここに記したことは、いま浮かんでいるほわほわしたつながり線。
アメーバのように増殖したり分離したりしていく。
だからまた書き換えるかもしれない。

※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな、主観の言葉です。

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