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【仕事編・臨床検査員③ 自動再生装置の発生】 0ポイントと出会う旅

自動再生装置生成機だ。

前回に書いた内容を読んだら、そんな言葉が浮かんできました。
おはようございます。
本日も早起きに成功して気分がいい今朝です。

会社って仕組みは、とっても便利。
ある課題を解決する設定をする。
「課題の解決」が「目的」となる。
目的を遂行するためにいろいろな工夫がなされている。
効率的に、よりコストを抑えつつ、目的の達成をスムーズにして、資本主義社会の現代日本において、求められ結果を出す(利益を上げる)状況を可能にする工夫がたくさんされている。

初めての就労で、わたしはその中に入った。
夏休みだけの期間限定なアルバイトとは違う、「継続されるシステム」の中に自分が入る、という経験だ。

似たようなことは就学の場、学校でも起きているかもしれない。
が、今は、就労に限定して記述してみる。


先に列挙したように、会社という仕組みはとても便利で、だから現代では無数にあって、まるで世界はそれで回っているかのようにも思えてくる(幻想なんだけどね)。

便利すぎる。

強い。

だって、一度設定したら、まるで自動で回るみたいに見えないシステムができてくる。

「目的」が、「利益を上げる」と、同義になってもなんの不思議も感じさせない。
先に書いたように、

ある課題を解決する設定をする。
「課題の解決」が「目的」となる。
目的を遂行するための、いろいろな工夫がなされていく。
効率的に、よりコストを抑えつつ、目的の達成をスムーズにして、資本主義社会の現代日本において、求められ結果を出す(利益を上げる)状況を可能にする工夫がたくさんなされている。

なわけだから、「収益を上げている」イコール「課題の解決」を意味することになる。
元々の目的であった「課題の解決」は、「収益を上げる」という目的に、簡単にすり替わる。
これは資本主義というもの?(たぶん、100分DE名著のマルクスの回を観るとそんな感じ)の、当たり前。

こんな便利な仕組み、どうよ、いいでしょ。


そんな便利な仕組みの中に入れて、ハッピーー!
イエス!人生!

と、なったか、というと
わたしは、

苦しくなった。


なんだかわからない苦しさにまとわりつかれるようになった。
3年目くらいの時期には漠然と「この仕組みから外れたい」と感じていた。
それは当時の自分には「仕事を辞めたい」という言葉にしか、まとまらなかった。
でも、実は、そういうまとまり方では取りこぼしちゃうなにかが潜んでいる。

それに気がつくのは、ごく最近のこと。

初めての就労が19歳からだから、35年くらいかかって、そのことに気づき始めている。  遅い。まあいい。
これはわたしの中の仮説であり、主観的すぎるひとりよがりな言葉「粒と星座」を使うようになって現れてきた、わたしの中の仮説。

この間、35年くらいの間、
まるで「システム vs 個人」のようだった。

わたしはなにと戦っていたんだろう。
個人の中に内在化したシステムが、外れたいと望みながら抜け出せない、そういうわたし(個体)を生んでいた気がする。

これは長年そこに身を置くことで積み重なって内在化していく。


「目的」はなにか?
この問いはとても大事なはずなのに、簡単に転倒していく。

「収益を上げている」イコール「課題の解決」を意味することになる。
元々の目的であった「課題の解決」は、「収益を上げる」という目的に、簡単にすり替わる。
ことこ・ざわり

課題を解決するためにある組織だったはずが、いつの間にか「組織を存続させる」、ひいては「収益を上げる」ことが最優先になりやすい。

そもそもの目的は、どこへいった?


これは、なにか大きな組織という生き物がいて、それを悪者にしたら済む話でもないのではないか。
個人という一人の個体が集まる、「集団」において積み重なってくる何か「システム」という「装置」ではないだろうか。

例えばわたしの経験から

「つながり線」は、有機的自立運動のはたらきの運動の軌跡でもあるから、つながり線に溢れるということは可能性に溢れることであり、その先にあるであろう行動が想像されて、まだ起きていない未来に急かされる、みたいなことになる。

という運動が生まれることが、わたしという「個体」を通してみられた。

例えば、現場では
病院からやってくる血液にナンバリングをする→新しい試験管に同じナンバリングをする→遠心分離機にかける→血清(血液の透明な部分)をスポイトで取り出す→ナンバリングと付き合わせて試験管に移す→終わった血液検体は洗浄の場所に移動させる→洗浄する→洗浄器にかける…

というような工程が次々展開していく。
このような工程がスムーズに移行するよう、工夫がされていく。
ナンバリングもそのひとつ。
たくさんの血液がやってくる。その一つ一つの患者名と検査項目とをいちいち突き合わせて、ひとつひとつ検査をしていく、というのは、効率が悪くて収益につながらない。
だからナンバリングして、番号と検査項目とが連携する。
同じ検査項目に、該当するナンバーを集める。
多くの数の検査を一度に行える。

ここで、実は、転倒が起きている。
「ある一人の人の血液を検査する」から「検査に該当する血液を検査する」に転倒が起きる。
「人」から「モノ」に変わる瞬間だ。

よほど肝に銘じないと、目の前にある血液は、それに接する自分の目には「モノ」に映ってしまう。

そして、毎日、何度もこれを繰り返しているうちに、刺激の素であったはずの「たった一人のその人の血液」という刺激の素は、「いつも接する沢山の中のひとつ」にすり替わっていて、その後の行程へ進むことこそが当たり前の「目的」のようになる。

刺激の素であるはずの目の前のものに、接する度に、新鮮になれない。
ありきたりな、よく見る、よく知っているような気になる、刺激の素ではもうない、「粒」であり、「つながり線」であり、まるで既製品のような顔をした「モノ」が、「作業行程」の流れの中に流れていくだけになる。

・刺激の素→見慣れたモノになる
・有機的自立運動の運動→流れ作業になる

これは
「既製品の星座」現象ではないか。
以前にまとめた記述がある。


「既製品の星座」について、この時点では「有機的自立運動のはたらきが阻害されて苦しい」と書いたが、
一方で、「楽」でもあるかもしれない。

有機的自立運動は、刺激の素と応答しあいつつ、粒になりつながり線になりというはたらきである。人間のコントロール下にはないのである。

そんな、どこに落ち着くかわからないものに付き合っている時間も余白もないのが、効率化を目指す「会社」というものではないか。

であれば、有機的自立運動のはたらきなど無視されてよく、必要な工程が何事もなくスムーズに一方向に進んでいくことがいいではないか。

刺激の素は刺激の素である必要はなく、だって、有機的自立運動のはたらきは不要なのだから。
人によって、その時の環境によって、タイミングによって、粒やつながり線に成るのがバラバラである必要はなく、むしろそれは困る、毎回同じように、ちゃんちゃんと工程を進んでいってもらえなくては困るのだ。

であれば、「既製品の星座」は都合が良い。
むしろ、いいじゃん、楽じゃん!
たくさんこなして問題なくサッサと終わって早く帰ろうぜ!
給料はキチンともらえるし!


こういうことを、わたし自身も、していたのだ。
と、気がついた。

粒とつながり線がどんどんつながっていくわたしという個体には、想定されることが先回りをして迎えにくる、という逆転も起きていた。
先回りして(わざとではなく、想定されるから先の状態が迎えに来るイメージ)、逆算して「今」を行える。

日々の効率化に加担していることになる。

わたしもまた、「既製品の星座」生成の一端を担っているのだ。

「自動再生装置生成機」は、その集団に属する一人一人の個体が、ある線に沿って有機的自立運動する際に、発生するのかもしれない。


集団を継続することで、「既製品の星座」は生成されやすくなるし、いろんな「意味の転倒」「目的のすり替わり」が起きやすくなるし、その前提には「資本主義」というシステムも加担しているが、一度セットされた「資本主義システム」は、個人をさらに取り込んでいく宿命を負っているのではないかな。
集団において「資本主義システム」の元、個人に「既製品の星座」=「自動再生装置」の発生に加担する役割が生じるのではないかな。
というのが、わたしの経験からでてきた仮説である。


次回は、わたしのひとりよがりな主観の言葉「粒と星座」の視点から、更に仮説の記述を試みることができるだろうか。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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