【仕事編・臨床検査員④ 自動再生装置の発生】 0ポイントと出会う旅
ぐっと気温が上がりました。
歩くだけで重労働のような気がしてきます。
道に倒れて誰かの名を呼び続けたことはありません。
わたしは苦しくなった。
なぜか。
有機的自律運動の不在による機能不全が起きる。
演劇が必要だった。
いや高校演劇部の経験、
有機的自律運動の活性化。
いきなり寸劇が始まったかと戸惑われましたか。ゴメンなさい。
人生ってそんな感じじゃないですか。
いつの間にか何か劇に参加してしまっていて戸惑う、みたいな。
そんなことないか。自主的に人生を生きているのでしょうか。
そうでしょうか。
前回は、集団において、個人という一人一人がいつの間にか一方向の流れの効率化に加担する存在に容易になりやすく、また、それは潜在化しているのではないか?
「粒と星座」の視点に立ってみると、わたしの経験は、このような仮説を提示してきました。
本来、有機的自律運動に任せてはたらきが運動しているときは星座がどのように落ち着くか?は、未知であるはずだ。
・成るに至る時間
・成るタイミング
・成ったときの安定具合
・成る様相
これらは環境に依存し、先は読めない。
なぜなら、ありとあらゆる要素が作用しあってはたらいているから。
一方、有機的自律運動に似て非なるシステムがある。
世の中に既製品が存在するように、「だいたいこうだろう」という予測が立つ星座。
・そう成る回数が多い
・そう成る規則が見える(かのような思い込み)
・そう成る絶対数が多い
これが、個人という個体の中にも起きる。
内在化されていく「既製品の星座生成機」。
刺激の素に接すると粒になりつながり線になり、という有機的自律運動のはたらきが起きている。
粒になりつながり線になりという運動の軌跡は身体に痕跡となって記憶されていくから、
例えば別の機会に似た刺激の素と接した時、似たような粒とつながり線の運動が起き、星座の予測がつくことがある。
運動の軌跡が身体に思い出される。
これを「思い出し現象」と呼んでみよう。
刺激の素に接する→粒になる→つながり線 ←予想がつくつながり線
ここに、逆向きのベクトルが発生している。
日々、同じような刺激の素と接していると、運動の軌跡の「思い出し」が起きて、つながり線が迎えにくるようになる。
「つながり線の自動再生」→「思い出し現象」だ。
(ことこ・ざわり仮説)
「思い出し現象」は、わたしにも起きている。
粒とつながり線の運動の軌跡に溢れやすいわたしは、「思い出し現象」にも溢れかえることになる。
先の行動に迫られているようで、しんどい。
しんどいの嫌だから解決しようとして、今目の前をこなそうとする。
カラカラと車輪を回し続けて外れることができないネズミのようかもしれない。
それは、刺激の素を無視しないで応答しているから本当はそれはそれでいいはず。
いいはず、なんだけれど、集団においてこれが起きている場合、個体(個人)の0ポイントは優先されているか?
割と見過ごされやすい、のではないか。
他者にも自分にも。
そこで、最初に記述したような、有機的自律運動の欠乏状態に陥ることになる。というのがわたしの経験からくる仮説だ。
※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。
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