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【仕事編・コピーライター⑤ 個人の活性化と組織の活性化】 0ポイントと出会う旅

前回は、
デザイン事務所での状況を書き出してみた。

・目指すゴールは共有している
・誰かの顔色を見ない
・とにかく自分のやり方で作業にとりかかる
・失敗はする
・軽口もたたく
・社長も副社長もふつうに1人の人間
・デザイン部門はデザイン部門の、コピーライター部門はコピーライター部門の適切な環境がある

「粒と星座」の言葉で言い換えてみると、

・目指すゴールは共有しているけど、唯一で絶対な強い集団の輪っか、は存在しない
・誰かの顔色を伺って「集団の輪っか」が形成されることは促進されない
・自分じゃない誰かのやり方に自分を沿わせない
・失敗は当たり前(有機的自律運動の行方は誰も知らない)
・その人の見え方が、軽口にのっかって全体で共有されている
・役職で他の社員が遠慮することはない
・紙の上に必要な情報を並べてデザインを考えるのに適している環境と、文章が成っていく環境とは、ぜんぜん違っていて当たり前

これらは、刺激の素と接し、拾い拾われ、粒になり、つながり線になってはたらいていく有機的自律運動のはたらきを邪魔しない、成るに任せる部分が担保されている、と言えないだろうか。

映像制作会社から出向して担当した、地方局の朝の報道番組のタイムキーパーの時と、なにがどう違うだろうか。

タイムキーパーの時の状況を再びあげてみよう。

・初めての知らない仕事、タイムキーパーの担当
・わたしの仕事タイムキーパーを直接教えられる先輩はいない
・つまり、わからない点を聞ける人がいない
・周囲は同じ会社の同僚ではなく出向先の会社
・その会社自体が新しい組織
・早朝4時から始まる
・失敗の許されない生放送番組
・担当番組が終われば自分の社に戻る
・時事刻々変化する目の前の時間を秒単位で修正、現場に周知する必要
・自分が担当する番組のタイムキーパーは自分しかいない
・自分がダメになってはダメ

といった環境、現場にあり、

「集団の輪っか」は、緩やかに出来上がったものではなく、現場に追われる形で急速に立ち上がっていた可能性。
誰もが「正解」がわからず手探りで、誰もが「失敗」の恐怖に迫られていて、誰もが責任が自分にあることを感じている。
拾えるだけ拾っていた。
刺激の素が満載で、タイムキーパーの担当がわたし一人なのであれば、他の人はそれぞれに担当を担っているから、わたしはわたしの担当をしなければ現場は滞るので。
拾えるだけ拾っていた。
拾ったら目の前のタイムスケジュールを修正していく。
時間の面からみたら、ディレクターでさえわたしは上回って全体をコントロールしていかねばならない。
こわい。
「粒と星座」の言葉で言い直すと、
強くて唯一の「集団の輪っか」の中にあって、それに沿っていくだろう拾い方しかしない、そういう強制力みたいなものがわたしにはたらいていて、そこに向かって「拾おう、拾おう、としているはたらき」が、軌跡となってわたしの中にあって、はたらき続けている。
止まない。

それは、本来、わたしという身体が自然に成っていく有機的自律運動と比べると、より過敏にならなければ対応できないものだった。


これらを比べてみて、
「粒と星座」の言葉がやってきた今のわたしから見えるのは、

組織において有機的自律運動を活性化させるには? 仮説
・集団の輪っか <  個人の0ポイント
・その上で組織が目指す方向が全体で共有されている

この2つの条件は最低限なくてはならない気がする。

集団の輪っか


個人の0ポイントが担保されるには「集団の輪っか」が強すぎては叶わないだろう。
「集団の輪っか」が優先されすぎていれば個人の0ポイントはないがしろになるだろう。
「集団の輪っか」は、形骸化して「型」だけが残るかもしれない。

個人の有機的自律運動が活発さを失えば、組織全体の有機的自律運動も活性化しないだろう。
個人の有機的自律運動と全体の有機的自律運動は同じ、個=全体、全体=個、なのだ。

そうなった時、形骸化した「型」だけの「集団の輪っか」にみなが沿っていけばどうなるだろうか。

個の有機的自律運動を優先すれば、組織全体の利益が損なわれるような気がするが、そうではないのではないのではないか。
個人のわがままや、身勝手に、組織は辟易するだろうか。
でも、その対処にシステムやルールを厳しくすれば、いよいよ唯一の「集団の輪っか」へ沿っていく流れが整備され、「その組織の正しさ」のようなものが出来上がって「集団の輪っか」は強固なものになっていくだろう。

形骸化した「集団の輪っか」を守ることが目的に置き換わってしまう。

そうなったら、有機的自律運動はどこにおいても優先されなくなり、個人も、個=全体である組織も、持続不可能となるのではないだろうか。

もちろん、業種が違えば叶わないこともある。
規模が違えば叶わないこともある。
東京にキー局のある地方のテレビ局番組において、キー局の番組に沿って現場を統率していくことは当たり前だろう。
テレビの生放送をやることと誌面のデザインをすることとはまったく違う作業だろう。関わる人数もやることも違うだろう。

けれど、そのために集団の輪っかに沿うことが優先され個人の0ポイントがないがしろになるなら、だったら、そもそも、規模を見直すとか業種のシステム自体を考え直すとか、変えていくことだって考えられるのではないだろうか。

つまり、変われる可能性が、あるということだ。

組織において有機的自律運動を活性化させるには? 仮説
・集団の輪っか <  個人の0ポイント
・その上で組織が目指す方向が全体で共有されている

この最低限の条件は、どのような工夫で担保できるだろう。
引き続き、経験の中から考えていきたい。



※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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