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【仕事編・映像制作会社③ 0ポイントに至れば「行動」に移行できる】 0ポイントと出会う旅

歩いた。
コーヒーをのんでいる。
雨になるのか窓の外は暗いが気分も体も軽い。

タイムキーパーは
「辞めたい」が言えずに体を引きずって這うように毎日通っていた。とっくに、もう無理だった。
精神科に行った。
先生にそのことを話せた。
「辞めていいんじゃないですか」と、先生が言った。
「辞めてもいいんだ」と、わかった。
泣けた。

泣く、というのは、
泣く、に限らないけど、現れてくる「現れ」は、なかなか理に適っていると思う。

日々の、刺激の素に接して粒になりつながり線になり、の有機的自律運動の中にあり、
時に、絶対的(に感ぜられる)な集団の輪っか、唯一(に感ぜられる)な集団の輪っか、の下にあるとき、
わたしは自分の0ポイントから遠く離れてしまっている。

強力(に感ぜられる)な集団の輪っかに沿った星座しかその集団において歓迎されない(のように感ぜられる)とき、
そこから外れて星座に至れない、こぼれ落ちている粒やつながり線が、わたしには沢山あって、
それはなくなってはいなくて、わたしの中だけに、個体の中だけに、「軌跡=記憶」の状態で溜まり続けている。

それらは、星座を指向していたのに、途中で行き先を失った亡霊のよう。
出口がない。

わたしは精神科の先生に、「こんな自分はおかしいでしょうか」と聞いた。
「せっかく転職して、でも1年ももたないで、また辞めたくなっているのは、ダメだと思って」とわたしは言った。
先生は「辞めてもいいんじゃないですか」と言った。
「でも、」と、話しながらわたしの中から堰を切ったように涙がどんどん出てきた。
泣いているうちに「ああ、いいんだ、辞めても、いいんだ」という気持ちが湧いてきて、
必死に堰き止めていたダムが、いいよー、と
ドドドドドドドドーーーーーーーー
っと、水が流れ出した。

わたしの中にはこれほどの、行き場を失った粒とつながり線が溜まっていたのだ。
強力な集団の輪っかに沿っていく指向と、わたしの星座に成ろうとする指向との、間に拮抗があった。

現れてもいいのなら、
わたしの「ドドドドドドドドーーーーーー」は、出てくるのだ。
これも、「星座に成る」と、言ってもいいように思える。

誰に受け止めてもらえなくても、
いま目の前にいる人(この時は精神科の先生)が、「いいよ」と言っている。
「有りだよ」と言っている。

どんなにわたしが「ダメだ」と思って堰き止めてみても、
出口だ!つって、粒とつながり線は、感情状態の星座に成った。

「いいよー」と、わたしの成り方が言っている。
「それだよー」と、わたしの成り方が言っている。
わたしには、わたしの、星座の成り方がある。
星座の形も、他の人とは違うかもしれない。
だけども、わたしの、成り方なのだ。
集団の輪っかに、沿えていなくても。

感情もまた、「星座」なのかもしれない。
言葉だけじゃなくて、「星座」は、いつでも成ることを指向しているようにわたしには思える。
「痛み」「痒み」「くしゃみ」「病」「歩行」「ハッとする」「ウキウキする」「笑う」いろいろいろいろ……。「現れ」は様々だ。

「感情」。
形はないけど、エネルギーの状態で、感情は、現れてくる。

そしてそれが、自分の0ポイント、
刺激の素に接して、環境があって、の中での
「応答が叶っている範囲」である「0ポイント」であれば、
なにか腑に落ちるような、ホッとするような、落ち着くような、感覚になるはずだ。


精神科の先生に言われたことを思考で理解したとか説得されたとかいうこととは違うような気がする。

許された、というか、
誰か人に許されたというよりも、それは、
わたしの成り方で星座が成ってもいいんだ、というような許しだった気がする。


わたしは腑に落ちた状態に変化していた。「辞める」を言えた。

わたしは「わたしの成る」に沿えたら、落ち着いた。
「落ち着いた」「腑に落ちている」ような状態に自分があれば、
0ポイントにあれば、
「行動」に移行できる。

そんな仮説が生まれた。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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