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【仕事編・映像制作会社⑤ 自分の本来とかけ離れたなら】 0ポイントと出会う旅

雨です。
時折バラバラバラバラーっと雨の音が急に強まったり、たのしいです。

30回転職経験のあるわたしの、
就労について記述しています。

前回記述した通りタイムキーパーを辞めることができましたが、
働いている時の経験は身体に強く残っていて、なかなか次の就労に向かうことができませんでした。

タイムキーパーの現場にいないのに、体が緊張状態を忘れられない。
緊張状態が止まない。

「粒と星座」の言葉で言い直すと、
強くて唯一の「集団の輪っか」の中にあって、それに沿っていくだろう拾い方しかしない、そういう強制力みたいなものがわたしにはたらいていて、そこに向かって「拾おう、拾おう、としているはたらき」が、軌跡となってわたしの中にあって、はたらき続けている。
止まない。

それは、本来、わたしという身体が自然に成っていく有機的自律運動と比べると、より過敏にならなければ対応できないものだった。

「過敏な反応に成る粒とつながり線」

わたしは元々はのんびりしていた。
ぼーっとしているし、一人で何時間でもいられる。

ほわ〜〜っとしている、というのか。
粒に成り、つながり線に成り、が、ほわほわしている感じというのか。

反面、
人がいると緊張して体が萎縮する。
気にしなくてはいけない刺激の素があると、「気にしなくちゃ」という負荷がかかるようだ。
そういう身体だったから。

自然としていればそういうゆったりしたはたらきのわたしという個体が、「その状態では仕事にならない現場」で、「拾えるだけ拾う」という必要に迫られていた。
負荷のかかった、本来ではない、緊張状態の、粒になりつながり線になりのはたらきが、軌跡として刻まれていた。

それはたしかに、わたしのやった行為だし意志なんだけど、まるでわたしがわたしを操っていたかのような糸があるみたい。


今なら、自分だけを責めるようなことはしない。
かといって、職場が悪い、とも言わない。
「粒と星座」の視座から見えてくるのは、すべてが作用しあって目の前のことが起きているから、なにかひとつのことに罪や原因を負わせることは事実とはかけ離れるということ。

当時は、せっかく初めての転職をしたのに辞めてしまったことを、
どうして続けられなかったんだろう、と
自分の不甲斐なさが迫ってくるだけだった。

今なら、納得できる。
様々な要因が作用しあって現れている現実
目の前のこの現実の、責任を、一人が背負っても間違うし、
なにか原因を追求しようとしても間違ってしまう。
考えられるあらゆることを挙げても、見逃している、見えない要素はある。

有機的自律運動はあちこちで常にはたらき続けている。

このことの前に個人であるわたしは謙虚になる。

だったら、わたしは、わたしという個体として、どのようにあったらいいだろう。

今現在していることは、
わたしの0ポイントに正直にあろうと努力すること。

楽であること。
苦しかったら、どこが滞っているか、無視しない。
手当てしてやる。
長年の粒とつながり線の軌跡に襲われそうになったら、それはたいてい自分責めとか後悔とか他者を悪者にしたりといった形で現れてくるが、そういうときは「これは過去の粒とつながり線の運動、軌跡」だということを思い出す努力をする。

「粒とつながり線の軌跡」=記憶

それが思い出せたら、「今」どのようなはたらきの中にあるのか、感覚に正直なまま、感じる努力をする。

まず、わたしが、わたしの、はたらきに応答する。

例えば、
汗をかいたらハンカチで拭き取る。

例えば、
喉が渇いたら面倒くさがらずに水を飲む。

例えば、
雨が降っているから出かけるのやめようかな、買いたいものがある、今日は体調がいいし今日行きたい、少し様子を見て行けそうなら行ってみようね、と自分と話し合いをする。

些細なこんなことの積み重ねが、今、わたしのチャレンジしていること。

些細だけど、こういう積み重ねで、わたしは機嫌がいい。
「粒と星座」の言葉が出てくる前は、朝起きたらその瞬間から気分が落ちていてぐるぐるしていたが、もう、そんなことはゴメンなのである。

ご機嫌でいいのである。
ご機嫌な自分を許せるのである。
天才バカボンのパパなのだ。

当時はそういった大きなはたらきのことに思い至れず、粒とつながり線の軌跡に襲われるまま、自分の中に「過去」が転写され続けていた。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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