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【仕事編・臨床検査員⑤ 有機的自律運動の欠乏】 0ポイントと出会う旅

ここのところ朝から暑すぎる。
歩くのを止めるか。
いや、わたしは朝の5時に起きた。
出かける支度がなぜか2時間半かかるので、家を7時半に出た。
歩いた。
歩くをあきらめなくてよくって気分がいい今朝です。

わたしは苦しくなった。
なぜか。

有機的自律運動の不在による機能不全が起きる。
演劇が必要だった。
いや高校演劇部の経験、
有機的自律運動の活性化。

と、前回の最初に書いた。

「思い出し現象」が「既製品の星座」をひっさげて迎えにくる。
カラカラと回る車輪にセットされたような毎日。
考えなくても現場が回る。
本当は一人一人の血液を、その人のためを思いながら検査(臨床検査)したい。でも、目の前のそれは、「検体」であった。
番号のふられた「モノ」だった。
わたしは怖かった。
本当は怖かった。
人の健康状態を図る検査が、血液が、ただの「モノ」に思えてしまっていることに。

最初に血糖値の検査を担当した。
試験管を2本持って片方の掌にポンポンと当てながら試薬と血液を攪拌(かくはん)する。
上手だった。
目の前の「モノ」と、応答し合うのは、わたしはよくできた。
刺激の素に接すると応答できるからこそ、粒やつながり線になりやすく、有機的自律運動も活発だ。

だからこそ、粒とつながり線に溢れかえるし、「忙しく」なってしまう。相対的に。
やっている作業が同じでも、応答している、粒になりつながり線になり、のはたらきが活発なのだ、相対的に(わたしの主観だが)。

逆に言えば、わたしと同じ程度の粒とつながり線の活性化度合いの人が周囲に多ければ、
相対的におしなべて似た程度の有機的自律運動の活性具合にあれば、
わたしは自分が「忙しい」とは感じないかもしれない。
「忙しい」と感じるとか、その人の感情のように思えるけれど、そうじゃないかもしれない。

(有機的自律運動が活発で粒になりつながり線になり、に溢れかえることが偉いとかすごいとかということではない。現象について記述しているつもり)

就労して3年もすると、わたしは苦しくって仕方なくなってきた。
なにが?と考えても、理由がわからない。
人に相談してみても、らちがあかない。
なにが不満なの?となった。
たしかに、条件的に不満はなかったかもしれない。
では、なんなのか、この苦しい感じは。
自分でもなんなのかわからない。
人に拾われない「こと」というのは、自分の中から具体的になっていかない。
そのこともわたしを苦しくさせた。
わたし以外の人と、「苦しい」と感じているわたしと、なにが違うのだろう。

まさか、ただ目の前の仕事を一生懸命やることが「有機的自律運動」の欠乏を招くことに通じているとは、当時は気がつけなかった。
30年もかけて、最近になって、ようやく仮説が立ってくるという。


見えないこと、も、苦しかった。
病院から運ばれてくるのは「検体」と呼ばれる、「誰かの血液」。
その誰かである「人」、には会えない。
だから「血液の本体である一人の人」に接することができず応答することができない。
目の前の「検体」と、応答するしかない。
そして、仕事上、それでいいのだ。
だから誰も疑問に思わない。

でもわたしは苦しかった。
それは工場で働いた時もそうだった。
見えなすぎ。
足りない。
接するはずの刺激の素が不在。
そこを埋めながら目の前の仕事をするのって、なんだか、架空のなにかを擬似的にやってるような、嘘っぽさが常に感ぜられた。


前回も書いたが「既製品の星座」は、有機的自律運動を最後まで見守らない。
放っといてくれないのだ。
先に答えを出してしまうクイズのような、なんとも台無しな感じなのだ。

「先に答えがわかった方が早いでしょ」
「答えが分かった方が間違えないでしょ」
「失敗するより答えがわかってたら損しないでしょ」

これらの言い分て、仕事の現場で、当たり前みたいな顔してませんか?

・早く効率的に
・間違えないように
・失敗しないように
仕事はこれらを気をつけながら進めていく、というのが、これまでの仕事の大事な要素だったのではないだろうか。


わたしはこれらに沿っていた。
これらを念頭に働いていた。
いつのまにかできあがっていた「既製品の星座」の中にいた。

そして、有機的自律運動の欠乏に陥っていたのかもしれない。

刺激の素に接する→粒になる→つながり線 ←予想がつくつながり線

ここに、逆向きのベクトルが発生している。
日々、同じような刺激の素と接していると、運動の軌跡の「思い出し」が起きて、つながり線が迎えにくるようになる。

「つながり線の自動再生」→「思い出し現象」だ。
ことこ・ざわり

・「既製品の星座」に支えられて仕事がスムーズに進んでいれば、実は、個体(個人)の0ポイントはなおざりになっている。
・システムはシステムを生む可能性をはらむ

次回はこんなことを記述してみられたらと思っている。
記述に至るだろうか、どうだろうか。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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