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忙しいが充実だと思っていたのだろうか

わたしは、時々【暇】を体感する

元々ボーっとするのが好きだった

何も考えない
何も感じない
ただ
そこにいるだけ

いつのころからか
「ただいるだけの人」は割とマイナスな印象を受けていると知った

でも、ボーっとしていた時に
直接
「あなた、今時間を無駄にしていますよ」とか
「あなた、サビシイ人ですね」など
言われたりしたことはない。

そう、見られているかも
という自分の幻覚に惑わされたのか
それとも、ある日のよもやま話の中で
そんな話題になったのか

それはどうだか忘れてしまったが
私は
ある時から
ボーっとしていることはムダでマイナスな行動だと思った
そしてそれを封じなければならない


スマホで何でも出来る
だから暇を感じれば、多くの人はきっと
スマホを触りだすんだと思う

私も
そうしていた

「暇」はマイナスだと

スマホは私の暇をごまかしてくれた


だから子供たちが
「暇だ」とつぶやく声が怖かった
親の私が
何も彼らに刺激を与えていないようで
お前は怠けていると
子供から白い目を向けられているようで
怖くて
苦しくて
でも、これ以上は頑張れなくて
「お願いだから、そんな言葉いわないで
心底思った

それを声に出して
子供たちに伝えなかったことは
自分の中でのギリギリの辛抱だった

そんなある時
何かの育児コラムに出会った
と、言っても詳しくはもう覚えていない
「子供のときに暇を体感することがよい」
そんな内容だったと思う

暇を感じ
その暇を自分でいかに楽しいものにするか
創造のチカラつくとか
つかないとか

そんな内容だったと思う
でも、そんなおぼろげな記憶のくせに
私はひどく衝撃をうけた

暇、、、でいいんだ


はじめて
暇を肯定された気がした

私が好きだった
「ボーっとする時間」を肯定された気がした


そこから
子供の「暇だ」が
恐怖の予言ではなく
未来への可能性の言葉に聴こえるようになった

心の中で
「そうか、君はこれから創造の世界へ羽ばたくのだな」
とニヤリと笑える余裕まで出来た

そして今のところ
彼らは自由に「暇」を満喫しているように見える

私も
彼らを見習って
再び「ボーっと」する時間を復活させてみた

まあ、私の場合
ボーっとするだけなので何も生み出さないが

不思議と
何かがリセットされた気がした

もちろん
気だけである

外からみれば
ただボーっと突っ立っているだけ

それが意外とよい

やっぱり私は
「ボーっとする」ことがすきなんだ

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