父より母の方を許せないのはどうしてか

これは私が自分の中の疑問としてずっと抱き続けていたものだ。

私が虐待を受けていた数ヶ月は本当に怖かったし、辛かった。
だけど、その後の生活は更に苦しかった。
母にこれからも一緒に暮らしてほしいと言われてから2年くらいの記憶が、ほとんどないくらいだ。

私が高校生になった時には父に対して何も感じなくなっていたし、現に結婚して家を出るまで一緒に暮らすことができた。
だけど、今思うと高校生くらいから社会人までの私は異常だったと思う。
必要以上に母にべったりしていたし、休日はたいてい一緒に出掛けていた。
母の好きなものは私の好きなものだった。

例えば、母は花や植物が大好きだった。
自宅には沢山の鉢植えがあり、季節ごとに変わるがわる花が咲くように工夫されていた。リビングルームにはポトスが一面に張り巡らされていた。
今ならはっきりと言えるが、私は花が好きではない。
もらっても少しも嬉しいと思わない。
だけど、実家にいる時の私は当時付き合っていた彼氏に誕生日のプレゼントとしてフラワーアレンジメントをもらって、それを母に見せて喜んでいた。初めてもらったお花だからと、写真を撮ったりもした。

また、私は大学生の時に母の勧めでパン屋でアルバイトをした。
2人で街を歩いている時に母が店先の貼り紙を見て、「ここにしたら」と言ったからだ。
母に言われたら、何の抵抗もなく受け入れていた。
ある時店長に聞かれた。「何でここ働く事にしたの?」と。
私は「母がパンが好きなので」と答えた。
今なら「パンが好きなので」と言うだろう。
あの頃の私は何でも母が基準だった。
共依存だったのかなと今になって思う。

結婚して実家から離れてみると、私の中の母に対する気持ちが少しずつ変わっていった。
夫に「養育費をもらって離婚すれば良かったのに」と言われたことがきっかけだと思う。
けれども、虐待のことはテレビのニュースでも見ない限り思い出すことはなかった。

それから10年以上経ち、私の娘が小学6年生になった年の秋にふと思ったのだ。
「この子ももうすぐ中学生になる。私が虐待された時と同じ年になる———。」
急に心配になった。
夫のことは信じている。でも、世の中に絶対はない。
もし娘が同じような目にあったら———。
そう思うと涙が止まらなかった。

娘が中学生になる時には心配で夫から目を離せないのではないかと思っていたが、当時はそれどころではなかった。
新型コロナウイルスの流行で緊急事態宣言が発令されたからだ。
娘の中学校入学は6月になった。家族でコロナにかかったり、娘が不登校になったりと、怒涛の数年が過ぎていった。

私が再び自分が受けた虐待を振り返ることになったのは、父が入院し余命半年だと告知されたからだ。
私は思った。
娘が私と同じ目に遭ったら、絶対に離婚する。
夫を家から追い出すし、殺してやりたいと思う。
私のように、また一緒に暮らすなんて絶対に考えられない。あり得ない。生活保護でも何でも利用して夫とは離婚する。

それなのに、なぜ母は離婚しなかったのか。
手に職があったのに。
どうして、何で、私にあんな苦しい思いをさせてまで、一緒に暮らさなければならなかったのか。どんな理由があったにしても、一緒に暮らすことを決めたのは母なのだ。

私が結婚する時、母は声を震わせながら言った。
「琴子の夫に何かあったら、お母さんが守ってあげるからね」と。
自分の言葉に感動している口ぶりだったが、私は少しも心を動かされなかった。それどころかこう思ったのだ。
「私が一番守ってもらいたかったのは、お父さんのことがあった時だよ」と。

そうだ、私が一番苦しかった時、守るどこか地獄に突き落としたのが母だったのだ。
離婚せず、父との同居を強要された。
そのくせ、飲まないとやっていられないと連日午前様になるまで飲み歩いていた母。
だから母が許せないのだ。嫌いなのだ。

この事を口に出したら、もう母に会うことはできないと思っていた。
だから、母と対決をしたあの日から、私は母に会っていない。

この事を北海道の伯母に話した時に、伯母が言ってくれた言葉がある。
「琴子はお父さんのことがあったときの傷がまだ治っていないんじゃないかな。心のどこかで、傷ついた事をお母さんにわかってもらいたいと思ってるんじゃないかな」
素直に、そうかもしれないな、と思った。伯母は続けた。
「お母さんも琴子ももっと歳をとって、お母さんに介護が必要になったくらいのときに、こんなお母さんだけど、まあ良いかって思えるかもしれないよ」
そんな日が来るだろうか。今は全く想像できないけれども。
だけど、伯母がちょっと低い落ち着いた声で、ゆっくり話してくれたこの言葉は、私の心にじんわりと沁み入った。
少しだけ母への負の気持ちが薄らいだ気がした。

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