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内に存在する分霊(わけみたま)

分霊(わけみたま)とは、神様の霊を分けて、神社仏閣に祀ること、と言われているけど、そこに神様はいるんだろうか?
いや、いるかもしれないけれど、それとは別に、

これはあくまでも私の持論で、見えないものでもあり、証明することなんてできないけれど、

私は、思う。
人は誰もが無数の魂の欠片が集まって、それぞれの魂となって生まれてきている。
その中には、古事記や日本書紀、神話などに描かれる神様の魂の欠片が入っている人もいる。
その欠片の大きさがそれぞれ違うだけで、本当はみんな全ての魂の欠片を持っているように思う。

今生での生き方で、どの欠片が輝いてくるか、変わるのではないだろうか。
そんなに遜色のないいくつかのやや大きめの欠片が、その人を導く。

少しおこがましくも思うが、私の場合だと、菊理媛と吉祥天に惹かれるのだ。
菊理媛は、伊邪那岐命と伊邪那美命を和解させた古事記にも名前とそのエピソードが小さく載っているだけの神様。
大きく注目されることは少ないし、陰に隠れてしまって知られることも少ない神様だけど、黄泉の世界とこの世の境界を明確にする影響を密かに与えた神様とも言える。
あまり自分自身は大したことも出来ないし、注目されるような存在ではないけれど、不思議も周りのご縁に恵まれているように感じる。そして、ありがたいことに、ステキな人とステキな人のご縁の橋渡しをさせていただく機会がよくあったりする。
菊理媛にやけに惹かれるのは、同じような橋渡しをされたからかもしれない。

また、吉祥天に関しては、天河大弁財天社の創建に関わった天武天皇が瀬織津姫を天の安河の日輪弁財天として祀った時、吉祥天が五回振袖を振ったのが、五節の舞と言われているが、天河大弁財天に導かれるように節目ごとに訪れる機会があったり、吉祥院天満宮の傍に居を構え、息子もそこでのお宮参りで祝福を頂いたり、といったご縁がある。

一説には、弁天様が吉祥天の夫である毘沙門天に恋をして、元は七福神の一人であった吉祥天が夫と共に七福神の座を譲った、とある。
少し乱暴な説だとは思うけど、この時代の信仰的にも吉祥天から弁財天に人の心も移っていったようだ。
吉祥天はその像も女性性の象徴のような趣。
その他にも調べれば調べるほどに、自分と重なる質のようなものを感じる。

それが真実かどうか、と言うよりも、
自分がそうであると感じるなら、その質に恥じない生き方を選んでいくことが大切なのではないだろうか。
自分の内なる世界に、それらの神が坐すと自覚して今の自分の肉体で与えられたものを活かしていくことが今生の使命ともいえるのではないだろうか。

じゃあ、誰の中にどの神様が存在するか、なんて分からない。
自分が、この神様は自分の中にいる、と思ったらいるんだよ。
この神様に惹かれると思ったら、その神様が自分の内に在るのか、もしくは自分の内に在る神様にご縁の深い神様なのかもしれないよ。

そして、神様だけでなく、これまで生きてこられたたくさんの先人の分魂の欠片も星の数ほど私たちの中に存在しているような気がする。

だからこそ、出会う人全て何かしらの縁があるし、自分を大切にすることが人を大切にすることであり、人を大切にすることが自分を大切にすることに繋がると思うのだ。

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