旬を味わうことは
この季節が移ろう国の住民としてよろこびであったりただの日常であったり。その扱いかたは様々であろうかと。

が、頃合いを過ぎたものはただ
その名残りを惜しむだけなのだ。

日々の生活に起こることもおなじ。

あのころあんなに夢中になったお菓子、ゲーム、音楽、人の集まり、服だったりスポーツだったりもしかすると学びだったり考え方や食生活だったり

他人になにかを依存していたとすると
その人のなにか(あくまでもこちらからみた勝手なその人のとある一部であって本質ではないと思うたぶん)に対しての気持ちやふるまい
それは愛とか恋とか言われるものかもしれないし友情と言われるもののことだってある

旬を通り越えて何かお互いに変化を共に受け入れあえ続ければきっと
その関係はずっとずっと続く。その変化を含んで近づいて時に重なったりまたは遠ざかったりしながらもその人やモノやことのあり方を感じている。 

しかししかし
過ぎてしまいその変化をお互いに受け入れられなければもう区切りとかさよなら、とか
ひとつのステップを踏まねばならぬ。

くれぐれも

日本の夏に愛らしいもこもこセーターを着ることが
しあわせで素敵な体験なのか

今自分が欲しているものが
身体を冷やしてくれるものならば
もこもこセーターは
いまは手放さねばならぬ。

来年ももこもこしたいならば
今はやさしく洗われて
大切にタンスの奥底にしまわれなければならぬ。

そして冬が来た時に
自分の心のかたちが変わってしまったならば
(身体のかたちが変わったならばなおのこと)

そのセーターを潔く手放すことも必要である。

ソーシャルディスタンスィングな配膳。

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