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丹田瞑想と”蛙とびこむ水の音”の感覚

最近、小出遥子さんの主催する
朝の丹田瞑想を一日のスタートに取り入れている。
頭の中の空回りする感覚が薄らぎ、身体の中に自分がいて
「今、ここ」をしっかり味わえるようになってきた。

丹田(たんでん)瞑想で
頭でっかちの日頃の想念がしずかになり
静けさの中にいる感覚と、
”蛙飛び込む水の音”の感覚がつながった話を書きたい。

この感覚が、
『自分が自分の中心につながった状態』なのだと
わかった瞬間でもあったので、シェアしようと思う。



丹田瞑想ってなーに?

瞑想(めいそう)と聞くと何を思い浮かべるだろうか?
私の場合は、
ヨガやヴィーガンのヒッピー文化の中で
横文字のスピリチュアル系の人たちがやっている
『メディテーション』のイメージだった。
あるいは、
座禅のように足が痛くて、寒くて、厳しい
堅苦しいもの。

ところが、丹田(たんでん)瞑想を唱える
小出さんのやり方に出会って、
イメージが変わった。
「呼吸の深さもスピードも自由」
「姿勢も、座り方も自由」
気軽に取り入れて気持ち良いというおまけがついてきた。

小出さんのモットーは
「情報の発信者である彼女自身のやり方を正解としない」
「各自が、身体の心地良さを通して、
 自分の中心=丹田(たんでん)とつながる」ことを
主眼にしていて、なによりやっていて心地が良い。

仏教的なアプローチを取り入れているものの
自分の丹田を中心としたハラの部分に
日頃頭でっかちになってしまった意識を
落として落ち着けること。
その結果、
現代人にとってないがしろになっている
身体の心地良さを手掛かりにして、
各自が自分とつながる状態を目指して
その場と方法を提供している。


これは、長年目に見えない世界への興味があって、
知識や情報を詰め込んで、
頭でっかちになり、
それでいて今一つ絶対的な安心感というか
自分の中心の定まる感覚がたりない
私にまさに必要なものだった。



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広がる静けさの感覚とその向こう

朝の瞑想をゆるーい習慣にしたことで、
得られる最大のものは、
静けさをあじわう瞬間が毎日もてることだ。
先日、日本時間の午前六時に始まる
小出さんの丹田瞑想の誘導をZoomで聞きながら
面白いことを発見したのだ。

小出さんの誘導を聞きながら
目をつぶって骨盤のあたりに手を置きながら、
呼吸に意識を移してゆく。
頭がいっぱいになっているエネルギーが
濡れた雨に現れるように溶けてゆく。

頭の周りにギュッと集まっていたエネルギーは
体の中で重心を落として広がり、
日頃あってもないことになっている
体の凝りや疲れも感じられる。

瞑想の時間を
身体のエネルギーの調整の時間とも思っている私は、
コリや疲れを見つけると
意識の中で滞ったエネルギーが通るイメージをして
流れて出て行ってもらうことにしている。

お腹のあたりにゆるく
波打つようにエネルギーを感じる。
と同時に、自分という境目があまり意味を持たなくなる。

部屋の中の時計の小さな音がはっきり聞こえ、
窓の外で鳴いている小鳥の声がいとおしく感じられる。

そして、ただ静けさの感覚の中にたゆたう感覚。
贅沢な静けさの感覚。
何もいらない感覚。
ただひたすらに、今の静けさをあじわい尽くす感覚。



そして、ふと、先日のこと。
『今なら、森の中の古池にかえるが飛び込んでも
 その水音が、今の私には聞こえる!
 そして、かえるが味わう水の冷たさ。
 気持ちよさ。
 かえるが飛び込んだ後の葉っぱの揺れも、
 感じられる!』

そんな気がしたのだ。

そして、松尾芭蕉は
旅をしながら、こんな瞬間を味わっていたのではないか?
ひたすらに自然の中を旅する俳人は
自分自身が世界の万物とつながる体感覚をもって
日常をいきていたのではないか?

その研ぎ澄まされた感覚から生まれる
一体感、
ほんの小さな小さな物音が
万物に響き渡るような感覚を
読んだ歌なのかもしれない

と心に思い浮かんだのだ。


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自分の中心につながって、感覚を研ぎ澄まして生きる

丹田瞑想で体感できる 
『腹(はら)に意識が収まった状態』とは
自分という存在の根っこに
しっかりとつながった状態でもある。
存在するものすべて、
宇宙すべてとつながった状態なので
気配を敏感に感じたり、
察知する力が通常よりもさえている。

日本の古来の空手や合気道などの武道の伝統や、
禅などでもエネルギーの中心としての「腹(はら)」
の大切さを説いているのはこのためだ。
剣の達人が相手の気の乱れを突いたり、
相手の動きを瞬時に感じて
防御したり、攻めることができるのもこのためだ。

現代を生きる私たちは、
教育や社会の仕組みから
知識=脳の思考を中心にしたもの事のみが
事実であり、科学であり
正しいものだと教えられてきた。


その結果、
残念なことに古来から伝わっていたはずの
自分の身体と意識を結びつけ、
最大限に力を発揮するための
智慧の体系が失われているといってもいい。


先日、
武学の元世界チャンピオンのレノンリー氏の本を読んでいたら
「見えない力をコントロールする侍(さむらい)の礼法」という
考えが出てきたのだ。
氏曰く、「侍とは、十徳を備えたもの」だといい
儒教の五常の徳(仁・義・礼・智・信)を表すという。
そして、十徳のうちの八つまでは
南総里見八犬伝で公開されているものの
残る二つの徳は、秘伝となっているのだそうだ。

また侍は、
1)目には見えない天地宇宙の理を【古神道】
2)肉体を通じて実体化させて  【武術】
3)政治や日常に生かす     【陰陽術】
を高次のレベルで習得したものの意味であると説明している。

そのうえで、侍の礼法をすれば、
たった五秒ほどで合気道の達人のようなことができてしまう。

つまり何の修行もせずに、誰でもすぐにできるということは
そのような不思議な力が、
もともとすべての人間に備わっているということ。
『38億年の叡智とつながる・あなたの未来を拓く五秒の習慣』
レノンリー著より



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自分のセンサーを研ぎ澄ますスイッチとしての丹田

現代は、文字や映像、音として
ありとあらゆる情報の洪水のような時代だ。
文字を読み範読して、思考を積み重ねることの大切さを
ないがしろにするつもりはないが、
人間の思考を巧妙にだますことは実はたやすい。

また
敢えて人々を混乱させようとする
玉石混合の情報の洪水とあふれる事象の中で
『自分にとって大切なものをしっかりとつかみ取る力』
『不必要なものを瞬時に感じる力』は、
自分という存在が
エネルギー場としての人間の中心地点である
丹田につながって
本来の自分とずれが生じていないことが
大きい。

ブレていない状態の自分を知って、
感じる力。
その力があるからこそ、
本来の自分に一致しない何かを受け取った時に
「これは自分にとって違う」と感じることができるのだ。
その意味で、今の時代を生き抜くセンサーと言ってもいい。


自分の中心につながって
穏やかで静かな感覚が腹(はら)に
落とし込まされているか。

頭でっかち人間のエネルギーを
毎朝少しづつ腹に落とし込む時間を作ることを
習慣にして、
丹田とつながった心地良さの中で、
自分にとってのセンサーを大事に
感覚を研ぎ澄まして行こうと思う瞬間だった。




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