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詩を書くことは恥ずかしいことなのか

たとえばネット上で「あなたはどんな人?」と聞かれたら私は「詩を書く人」と答えると思う。絵を描いたり、小説を書いたりしているが、note以外にもブログやTwitterなど多くの場所で詩を書いているし、気持ちの中でも詩が一番の大きな場所を占めている。

けれど、ネット上では堂々と詩を書いていることを言えるが、実生活の中では私が詩を書いていることを知っている人は少ない。絵を描いていることを知っている人も少ないが、それ以上に私が詩を書いていることを知っている人はいない。

それは私が言わずに黙っているせいだ。私の大きな場所を占めているのに黙っているからだ。

なぜ言わないのか。いや、言わないのではなく、言う気がないのだと思う。それは「詩を書く=恥ずかしい」という感覚があるからだ。絵なら簡単に見せることはできても、詩は人に見せることに抵抗がある。実際の私を知っている人に「詩を見せて欲しい」と言われても断ってしまう。「ポエムを書くやつは痛い」という言葉はよく聞くし。あまり人に読ませることにいいイメージがない。


(…話は急に変わるが、今、文章を書いていてふと、「詩」と「ポエム」は同じ意味のはずなのに、その単語から感じる雰囲気はまったく違う気がする。「詩」の方が文学的なようで、「ポエム」の方は甘い匂いがする。)


では、なぜ恥ずかしいと思うのか。私の個人的な考えを言うならば、詩を読まれる感覚は裸を見られる感覚に近いと思う。取り繕うものを脱ぎ去った、心のゆらぎをそのままに表すということは、服を脱ぎ去った無防備な裸と同じ感覚なんじゃないかと思う。だから、見せる方も恥ずかしいと思うし、不意に見せられた方も引いてしまうのではないかと。そんな心の柔らかい場所を自ら晒している人はおかしいと思われてもしかたないのではないかと。

けれども、それでも。私はみんながもっと詩を書いたらいいのではないかと思っている。いや、別に詩という形になってなくてもいいし、人に見せる必要もないのだが、もっと心の奥にあるものを文字にしたらいいのではないかと思っている。

実際に私自身が詩を書いてきた中で、その行為自体が自分のストレス発散というか、カウンセリングになっていたような気がするからだ。あやふやな感情を文字にすることで自分の感情の動きを把握し、理解できる。そして、自分自身が欲しい言葉を与えることができる。


これはもう私が私を救う手段の一つになっているのだ。

とても優しい瞬間を与えてくれるのだ。


だから、別に強制なんてしないけれど、みんな気が向いたら感情のままに、書きたいまま、読みたいまま文字を書いてみたらどうかしら、なんて、偉そうに考えてしまった今日のこと。

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