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忘れ草

 友人・Kの死因は、病気でもなく、事故死でもなかった。
 休日、自分のマンションで、“心不全”を起こし死亡、ということだった。
 Kは、ごく普通の男だった。両親がいて、弟がいて、親戚がいて、同僚がいて、友人がいて、隣人もいて、付き合っていた女性が居たこともあった。

 人は、一人で生きてはいない。日常においては、必ず誰かと接点がある。
 Kが死んだ時、外部との接点は一切無かったという。
 わたしは、文字通り、接点が無くなったのだと思う。
 Kを知る全ての人に、Kの死亡時間、何をし、何を考えていたかを訊きたい。
 あなたはあの時間、Kを忘れてはいなかったかと。
 もちろん、私も含めて。

 みなさんは、不意に誰かのことを思い出す、ということはないだろうか。
 例えば、高校生の頃の同級生、特に親しくも無く、名前も思い出せないような仲だったのに、不意に思い出したりはしないだろうか。
 小さい頃、近所に住んでいた人でもいい。そんな思い出し方をしたりはしないだろうか。

 わたしが考えるに、その時あなたは、その人を“助けている”のではないかと思うのだ。
 誰かが、自分を想っているからこそ、自分が、ある。
 逆に、自分を知る人々の誰の心からも、自分が消える瞬間があるのだ。
 まさに、死神の鎌が振り下ろされる瞬間だ。

 Kが死んだ2008年6月1日の午後12時26分、わたしを含め、誰一人として、Kを想う者がいなかった。
 Kと我々を繋ぎ止める何かが切られたのだ。

 だから、Kは、死んだのだ。
 
 
     了